春秋左氏伝 / 文公六年 長君を立てんと欲す
八月,乙亥,晉襄公卒。靈公少,晉人以難故,欲立長君。趙孟曰:「立公子雍。好善而長,先君愛之,且近於秦。秦舊好也。置善則固,事長則順,立愛則孝,結舊則安。為難故,故欲立長君。有此四德者,難必抒矣。」賈季曰:「不如立公子樂。辰嬴嬖於二君,立其子,民必安之。」趙孟曰:「辰嬴賤,班在九人,其子何震之有?且為二嬖,淫也。為先君子,不能求大,而出在小國,辟也。母淫子辟,無威;陳小而遠,無援。將何安焉?杜祁以君故,讓偪姞而上之;以狄故,讓季隗而己次之,故班在四。先君是以愛其子,而仕諸秦,為亞卿焉。秦大而近,足以為援;母義子愛,足以威民。立之,不亦可乎?」使先蔑、士會,如秦,逆公子雍。賈季亦使召公子樂于陳。趙孟使殺諸郫。賈季怨陽子之易其班也,而知其無援於晉也。九月,賈季使續鞫居殺陽處父。書曰「晉殺其大夫」,侵官也。
新字:八月,乙亥,晋襄公卒。霊公少,晋人以難故,欲立長君。趙孟曰:「立公子雍。好善而長,先君愛之,且近於秦。秦旧好也。置善則固,事長則順,立愛則孝,結旧則安。為難故,故欲立長君。有此四徳者,難必抒矣。」賈季曰:「不如立公子楽。辰嬴嬖於二君,立其子,民必安之。」趙孟曰:「辰嬴賤,班在九人,其子何震之有?且為二嬖,淫也。為先君子,不能求大,而出在小国,辟也。母淫子辟,無威;陳小而遠,無援。将何安焉?杜祁以君故,譲偪姞而上之;以狄故,譲季隗而己次之,故班在四。先君是以愛其子,而仕諸秦,為亜卿焉。秦大而近,足以為援;母義子愛,足以威民。立之,不亦可乎?」使先蔑、士会,如秦,逆公子雍。賈季亦使召公子楽于陳。趙孟使殺諸郫。賈季怨陽子之易其班也,而知其無援於晋也。九月,賈季使続鞫居殺陽処父。書曰「晋殺其大夫」,侵官也。
書き下し
八月、乙亥、晉の襄公卒す。靈公少し。晉人難の故を以って、長君を立てんと欲す。趙孟曰く、「公子雍を立てん。善を好みて長なり。先君之を愛す。且つ秦に近し。秦は舊好なり。善を置けば則ち固く、長に事ふれば則ち順ひ、愛を立つれば則ち孝、舊を結べば則ち安し。難の故の為に、故に長君を立てんと欲す。此の四德有る者は、難必ず抒(と)けん」と。賈季曰く、「公子樂を立つるに如かず。辰嬴二君に嬖せらる。其の子を立てば、民必ず之に安んぜん」と。趙孟曰く、「辰嬴は賤しく、班は九人に在り。其の子何の震(ゐ)か之れ有らん。且つ二嬖と為るは、淫なり。先君の子と為りて、大を求むる能はずして、出でて小國に在るは、辟(へき)なり。母淫にして子辟なれば、威無し。陳は小にして遠く、援無し。將た何ぞ安んぜん。杜祁は君の故を以って、偪姞に讓りて之を上にし、狄の故を以って、季隗に讓りて己之に次ぐ。故に班は四に在り。先君是を以って其の子を愛し、諸を秦に仕へしめ、亞卿と為す。秦は大にして近く、以って援と為すに足る。母義にして子愛せらる、以って民に威あるに足る。之を立つるは、亦た可ならずや」と。先蔑・士會をして秦に如き、公子雍を逆へしむ。賈季も亦た公子樂を陳に召さしむ。趙孟人をして諸を郫に殺さしむ。賈季陽子の其の班を易へしを怨み、而して其の晉に援無きを知るなり。九月、賈季續鞫居をして陽處父を殺さしむ。書して「晉其の大夫を殺す」と曰ふは、官を侵せばなり。
現代語訳
八月乙亥の日、晋の襄公が亡くなった。太子の霊公は幼かった。晋の人々は国難が多いことから、年長の君主を立てたいと考えた。趙孟(趙盾)は言った。「公子雍を立てよう。善を好み、年長である。先君(文公)が愛された方であり、しかも秦に近い。秦は古くからの友好国である。善き人を立てれば国は固まり、年長者に仕えれば人々は従い、先君の愛した子を立てれば孝にかない、旧好の国と結べば安定する。国難のゆえに年長の君を立てようというのだ。この四つの徳を備えた方なら、難局は必ず解けるだろう」。賈季(狐射姑)は言った。「公子楽を立てる方がよい。その母の辰嬴は二人の君(懐公と文公)に寵愛された。その子を立てれば、民はきっと安心するだろう」。趙孟は言った。「辰嬴は身分が低く、序列は九番目である。その子にどんな威光があろうか。しかも二人の君の寵姫となったのは淫らである。先君の子でありながら大国に仕官先を求めることができず、小国の陳にいるのは、偏っている。母が淫らで子が偏っていれば、威がない。陳は小さく遠く、後ろ盾にならない。どうして民が安心しようか。一方、杜祁(公子雍の母)は、主君のためを思って偪姞に譲ってその上位を明け渡し、狄との関係のために季隗に譲って自分はその次に下がった。そのため序列が四番目になったのである。先君はこれゆえにその子を愛し、秦に仕えさせて、亜卿(次席の卿)にまでなった。秦は大国でしかも近く、後ろ盾とするに足る。母は義を知り子は愛されていた。民に威を示すに足る。この方を立てるのが、よいのではないか」。そこで先蔑と士会を秦に遣わして公子雍を迎えさせた。賈季もまた人をやって公子楽を陳から呼び寄せた。趙孟は人に命じて公子楽を郫で殺させた。賈季は、陽処父が自分と趙盾の序列を入れ替えたことを恨んでおり、しかも陽処父には晋の中に後ろ盾がないことを知っていた。九月、賈季は続鞫居に陽処父を殺させた。『春秋』が「晋、其の大夫を殺す」と記したのは(犯人の名を書かず国が殺したように書いたのは)、陽処父が他人の職権を侵して人事を変えたからである。
解説
この章句が説くこと
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史記 田敬仲完世家二十六年、魏の恵王邯鄲を囲む。趙救ひを斉に求む。斉の威王大臣を召して謀りて曰く、「趙を救ふと救ふ勿きと孰れぞ」と。騶忌子曰く、「救ふ勿きに如かず」と。段干朋曰く、「救はずんば則ち不義にして、且つ不利なり」と。威王曰く、「何ぞや」と。対へて曰く、「夫れ魏氏邯鄲を并せば、其の斉に於て何の利かあらん。且つ夫れ趙を救ひて其の郊に軍せば、是れ趙伐たれずして魏全し。故に南のかた襄陵を攻めて以て魏を獘らし、邯鄲抜けて魏の獘に乗ずるに如かず」と。威王其の計に従ふ。其の後成侯騶忌、田忌と善からず。公孫閲、成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ魏を伐たんことを謀らざる。田忌必ず将たらん。戦ひ勝ちて功有らば、則ち公の謀中るなり。戦ひ勝たずんば、前に死せずんば則ち後に北げん。而して命公に在らん」と。是に於て成侯威王に言ひ、田忌をして南のかた襄陵を攻めしむ。十月、邯鄲抜く。斉因りて兵を起こして魏を撃ち、大いに之を桂陵に敗る。是に於て斉最も諸侯に彊く、自ら称して王と為り、以て天下に令す。三十三年、其の大夫牟辛を殺す。三十五年、公孫閲又成侯忌に謂ひて曰く、「公何ぞ人をして十金を操りて市に卜せしめざる。曰く『我は田忌の人なり。吾三たび戦ひて三たび勝ち、声天下に威あり。大事を為さんと欲す。亦吉なるか不吉なるか』と」と。卜者出づ。因りて人をして之が為に卜せし者を捕へしめ、其の辞を王の所に験す。田忌之を聞き、因りて其の徒を率ゐて臨淄を襲攻し、成侯を求むれども、勝たずして奔る。三十六年、威王卒し、子宣王辟彊立つ。宣王元年、秦商鞅を用ふ。周伯を秦の孝公に致す。二年、魏趙を伐つ。趙韓と親しみ、共に魏を撃つ。趙利あらず、南梁に戦ふ。宣王田忌を召して故の位に復す。韓氏救ひを斉に請ふ。宣王大臣を召して謀りて曰く、「蚤く救ふと晩く救ふと孰れぞ」と。騶忌子曰く、「救ふ勿きに如かず」と。
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