春秋左氏伝 / 文公二年 僖公を躋す、逆祀なり
秋八月,丁卯,大事于大廟,躋僖公,逆祀也。於是夏父弗忌為宗伯,尊僖公,且明見曰:「吾見新鬼大,故鬼小,先大後小,順也。躋聖賢,明也。明順,禮也。」君子以為失禮。禮無不順。祀,國之大事也,而逆之,可謂禮乎?子雖齊聖,不先父食,久矣。故禹不先鯀,湯不先契,文武不先不窋。宋祖帝乙,鄭祖厲王,猶上祖也。是以《魯頌》曰:「春秋匪解,享祀不忒。皇皇后帝,皇祖后稷。」君子曰禮,謂其后稷親,而先帝也。詩曰:「問我諸姑,遂及伯姊。」君子曰:「禮謂其姊親而先姑也。」仲尼曰:「臧文仲其不仁者三,不知者三。下展禽、廢六關、妾織蒲,三不仁也。作虛器、縱逆祀、祀爰居,三不知也。」
新字:秋八月,丁卯,大事于大廟,躋僖公,逆祀也。於是夏父弗忌為宗伯,尊僖公,且明見曰:「吾見新鬼大,故鬼小,先大後小,順也。躋聖賢,明也。明順,礼也。」君子以為失礼。礼無不順。祀,国之大事也,而逆之,可謂礼乎?子雖斉聖,不先父食,久矣。故禹不先鯀,湯不先契,文武不先不窋。宋祖帝乙,鄭祖厲王,猶上祖也。是以《魯頌》曰:「春秋匪解,享祀不忒。皇皇后帝,皇祖后稷。」君子曰礼,謂其后稷親,而先帝也。詩曰:「問我諸姑,遂及伯姊。」君子曰:「礼謂其姊親而先姑也。」仲尼曰:「臧文仲其不仁者三,不知者三。下展禽、廃六関、妾織蒲,三不仁也。作虚器、縦逆祀、祀爰居,三不知也。」
書き下し
秋八月、丁卯、大廟に大事し、僖公を躋(のぼ)す、逆祀なり。是に於いて夏父弗忌宗伯と為り、僖公を尊び、且つ見る所を明らかにして曰く、「吾新鬼の大にして、故鬼の小なるを見る。大を先にし小を後にするは、順なり。聖賢を躋すは、明なり。明・順は、禮なり」と。君子以って禮を失ふと為す。禮は順ならざる無し。祀は、國の大事なり。而して之を逆にす、禮と謂ふ可けんや。子齊聖なりと雖も、父に先だちて食はざること久し。故に禹は鯀に先だたず、湯は契に先だたず、文・武は不窋に先だたず。宋は帝乙を祖とし、鄭は厲王を祖とするも、猶ほ祖を上にするなり。是を以って《魯頌》に曰く、「春秋に解らず、享祀忒(たが)はず。皇皇たる后帝、皇祖后稷」と。君子禮と曰ふは、其の后稷は親しくして、帝を先にするを謂ふなり。詩に曰く、「我が諸姑に問ひ、遂に伯姊に及ぶ」と。君子曰く、「禮は其の姊は親しくして姑を先にするを謂ふなり」と。仲尼曰く、「臧文仲其れ不仁なる者三、不知なる者三。展禽を下し、六關を廢し、妾に蒲を織らしむ、三の不仁なり。虛器を作り、逆祀を縱し、爰居を祀る、三の不知なり」と。
現代語訳
秋八月丁卯の日、魯は太廟で大祭を行い、僖公の位牌を閔公より上位に上げた。これは祀りの順序を逆にしたものである。このとき夏父弗忌が宗伯(祭祀の長官)であり、僖公を尊び、しかも自分の見解を明言して言った。「私の見るところ、新しい霊(僖公)は大きく、古い霊(閔公)は小さい。大を先にし小を後にするのが順である。聖賢を上に上げるのが明である。明と順こそが礼である」。君子は、これは礼を失っていると考えた。礼に順でないものはない。祭祀は国の大事である。それを逆にして、礼と言えようか。子がいかに聡明で聖なる者であっても、父より先に祭りを受けないことは久しく守られてきた。だから禹は父の鯀より先に祀られず、湯は祖先の契より先に祀られず、文王・武王は祖先の不窋より先に祀られないのである。宋は帝乙を祖とし、鄭は厲王を祖とするが、それでもなお祖を上に置いている。それゆえ『魯頌』に「春秋の祭りを怠らず、祭祀に誤りはない。大いなる上帝と、大いなる祖后稷を祀る」とある。君子がこれを礼と言ったのは、后稷は親しい祖先であるが、それでも上帝を先にしていることを言うのである。『詩経』に「わが叔母たちに問い、ついで姉に及ぶ」とある。君子は言った。「これが礼にかなうというのは、姉の方が親しいけれども叔母を先にしていることを言うのである」。仲尼(孔子)は言った。「臧文仲には不仁のことが三つ、不知のことが三つある。展禽(柳下恵)を下位に置いたまま推挙せず、六つの関所を廃止し、妾に蒲の敷物を織らせて売らせた。これが三つの不仁である。分不相応な器物を作り、逆祀を放置し、爰居という海鳥を祀った。これが三つの不知である」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之三闕里誌に載す。朱子語録に曰く、宣聖は本当に像を設くべからず。春秋の祭の時、只木主を設けて祭りて可なり、と。丘瓊山曰く、塑像の設は、中国に之無し。仏教の中国に入りしより、始めて有るなり。三代以前神を祀るに、皆主を以てし、所謂像設無きなり。彼の異教之を用ふるは、怪しむに足る無き者なり。知らず吾が聖人を祀る者は、何れの時にして始めて像を為すかを、と云ふ。李元瓘の顔子立ちて侍すと言ふを観れば、則ち像は唐の前に在りて已に有るなり。嗚呼、姚燧言へる有り、北史に敢て泥人銅人を造る者有らば、門誅す、と。則ち泥人は固より中土の主を為りて以て聖人を祀るの法に非ざるなり。後世其の非を覚る莫く、亦其の道に化して之を為す。甚だ神にして之を明らかにし、声無く臭無きの道に非ざるなり。
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『春秋左氏伝』僖公三十一年 甯武子、相の祀りを拒む三十一年春、濟西の田を取る、曹の地を分かつなり。臧文仲をして往かしむ。重館に宿る。重館の人告げて曰く、「晉新たに諸侯を得たり。必ず其の共(うやうや)しきに親しまん。速やかに行かずんば、將に及ぶ無からんとす」と。之に從ふ。曹の地を分かつこと洮より以南、東のかた濟に傅(つ)く、盡く曹の地なり。襄仲晉に如く、曹の田を拜するなり。夏、四月、四たび郊を卜して從はず。乃ち牲を免(ゆる)す、禮に非ざるなり。猶ほ三望す、亦た禮に非ざるなり。禮には常祀を卜せず、而して其の牲と日とを卜す。牛日を卜するを牲と曰ふ。牲成りて郊を卜す。上怠慢なり。望は、郊の細なり。郊せずんば、亦た望無くして可なり。秋、晉清原に蒐(かり)し、五軍を作りて以って狄を禦ぐ。趙衰卿と為る。冬、狄衛を圍む。衛帝丘に遷る。卜して曰く三百年と。衛の成公康叔の曰ふを夢む、「相予が享を奪ふ」と。公相を祀ることを命ず。甯武子可かずとして曰く、「鬼神は其の族類に非ざれば、其の祀を歆(う)けず。杞・鄫は何事ぞ。相の享けざること、此に於いて久し。衛の罪に非ざるなり。以って成王・周公の命祀を間す可からず。請ふ祀命を改めんことを」と。鄭の洩駕公子瑕を惡む。鄭伯も亦た之を惡む。故に公子瑕出でて楚に奔る。
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尚書・說命中惟れ厥の居る攸にして、政事惟れ醇なり。祭祀に黷(けが)るる、時れ欽まずと謂ふ。礼煩はしければ則ち乱れ、神に事ふること則ち難し。」王曰く、「旨(うま)いかな。説乃の言惟れ服せん。乃言に良からずんば、予行ひに聞く罔からん。」説拝して稽首して曰く、
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『慎思録』巻之四始祖の祭は、伊川之を行ふ。朱子曰く、古に此れ無し。伊川義を以て起こす。某当初は也た祭る。後来僭に似たるを覚え、今敢へて祭らず、と。篤信窃かに謂ふ、始祖の祭は、朱子既に之を家礼及び小学に載す。家礼の如きは、朱子四十歳の輯むる所なり。其の間固より晩年の論と合はざる者有り。小学書の如きは、五十八歳の輯むる所なり。拠と為すべきに似たり。然れども当初は也た祭る、後来敢へて祭らずと曰へば、則ち此を以て定説と為すに似たり。丘瓊山曰く、小学に此の条を刪らざるは、必ず其の説有らん、と。是を以て疑はしきを闕きて敢へて決せざるなり。
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史記 封禅書後五世、帝武乙、神を慢りて震死す。後三世、帝紂淫乱にして、武王之を伐つ。此に由りて之を観れば、始めは未だ嘗て粛祗せずんばあらず、後稍く怠慢なり。周官に曰く、冬日至に、天を南郊に祀り、長日の至るを迎ふ。夏日至に、地祇を祭る。皆楽舞を用ひて、神乃ち得て礼す可きなり。天子は天下の名山大川を祭り、五岳は三公に視へ、四瀆は諸侯に視ふ。諸侯は其の疆内の名山大川を祭る。四瀆とは、江・河・淮・済なり。天子には明堂・辟雍と曰ひ、諸侯には泮宮と曰ふ。周公既に成王に相として、后稷を郊祀して以て天に配し、文王を明堂に宗祀して以て上帝に配す。禹の興りしより社祀を修め、后稷は稼穡す、故に稷祠有り、郊社の従りて来る所は尚し。周の殷に克ちし後十四世より、世益々衰へ、礼楽廃れ、諸侯恣に行ひ、而して幽王、犬戎の敗る所と為り、周、東して雒邑に徙る。秦の襄公、戎を攻めて周を救ひ、始めて列して諸侯と為る。秦の襄公既に侯となり、西垂に居り、自ら以為へらく少皞の神を主ると、西畤を作り、白帝を祠る。其の牲は騮駒・黄牛・羝羊各一を用ふと云ふ。其の後十六年、秦の文公、東して汧・渭の間に猟し、之に居らんことを卜して吉なり。文公、黄蛇の天より下りて地に属し、其の口の鄜衍に止まるを夢む。文公、史敦に問ふ。敦曰く、「此れ上帝の徴なり、君其れ之を祠れ」と。是に於て鄜畤を作り、三牲を用ひて白帝を郊祭す。未だ鄜畤を作らざるよりして、雍の旁に故より呉陽の武畤有り、雍の東に好畤有り、皆廃れて祠無し。或ひと曰く、「古より雍州は積みて高く、神明の隩なるを以て、故に畤を立てて上帝を郊し、諸神の祠皆聚まると云ふ。蓋し黄帝の時嘗て事を用ひ、晩周と雖も亦郊す」と。其の語は経に見えず、縉紳の者は道はず。鄜畤を作りて後九年、文公、石の若きものを獲て、陳倉の北阪の城に之を祠る。
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説苑・修文聖人鼓・控・揭・塤・箎を作為し、此の六者を比するに德音の音なり、然る後鐘・磬・竽・瑟以て之を和し、然る後干・戚・旄・狄以て之を舞う。此れ先王の廟を祭る所以なり、此れ酢酳の酬を獻ずる所以なり、官序貴賤各おの其の宜しきを得る所以なり、此れ以て後世に尊卑長幼の序有るを示すべきなり。
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