春秋左氏伝 / 文公二年 陽処父、公と盟う
丁丑,作僖公主。書,不時也。晉人以公不朝,來討。公如晉。夏四月,己巳,晉人使陽處父盟公,以恥之。書曰:「及晉處父盟」,以厭之也。適晉不書,諱之也。公未至,六月,穆伯會諸侯,及晉司空士縠盟于垂隴,晉討衛故也。書「士縠」,堪其事也。陳侯為衛請成于晉,執孔達以說。
新字:丁丑,作僖公主。書,不時也。晋人以公不朝,来討。公如晋。夏四月,己巳,晋人使陽処父盟公,以恥之。書曰:「及晋処父盟」,以厭之也。適晋不書,諱之也。公未至,六月,穆伯会諸侯,及晋司空士縠盟于垂隴,晋討衛故也。書「士縠」,堪其事也。陳侯為衛請成于晋,執孔達以説。
書き下し
丁丑、僖公の主を作る。書するは、時ならざればなり。晉人公の朝せざるを以って、來り討つ。公晉に如く。夏四月、己巳、晉人陽處父をして公に盟はしめ、以って之を恥ぢしむ。書して「晉の處父に及びて盟ふ」と曰ふは、以って之を厭(いと)ふなり。晉に適くを書せざるは、之を諱むなり。公未だ至らず。六月、穆伯諸侯及び晉の司空士縠(しこく)に會し、垂隴に盟ふ。晉衛を討つが故なり。「士縠」と書するは、其の事に堪ふればなり。陳侯衛の為に成を晉に請ふ。孔達を執へて以って說く。
現代語訳
丁丑の日、僖公の位牌を作った。『春秋』がこれを記したのは、時期にかなっていなかったからである。晋は、文公が朝見しないことを理由に、魯を討ちに来た。文公は晋に行った。夏四月己巳の日、晋は大夫の陽処父に文公と盟約させて、文公に恥をかかせた。『春秋』が「晋の処父に及びて盟ふ」と記したのは(公が卿と盟ったこと、しかも晋の名を冠して姓も記さないことで)、これを嫌悪する意を示したのである。文公が晋に行ったことを記さないのは、それを恥として隠したのである。文公がまだ帰国しないうちに、六月、穆伯(公孫敖)は諸侯および晋の司空士縠(しこく)と会し、垂隴で盟約した。晋が衛を討ったためである。『春秋』が「士縠」と名を記したのは、彼がその任に堪える人物だったからである。陳侯は衛のために晋に和睦を願い出た。衛は孔達を捕らえて晋に弁明した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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