春秋左氏伝 / 僖公二十四年 居る者を罪せず
初,晉侯之豎頭須,守藏者也。其出也,竊藏以逃,盡用以求納之。及入,求見。公辭焉以沐。謂僕人曰:「沐則心覆,心覆則圖反,宜吾不得見也。居者為社稷之守,行者為羈絏之僕,其亦可也,何必罪居者?國君而讎匹夫,懼者甚眾矣。」僕人以告,公遽見之。狄人歸季隗于晉,而請其二子。文公妻趙衰,生原同、屏括、摟嬰。趙姬請逆盾與其母。子餘辭。姬曰:「得寵而忘舊,何以使人?必逆之。」固請,許之。來,以盾為才,固請于公,以為嫡子,而使其三子下之。以叔隗為內子,而己下之。
新字:初,晋侯之豎頭須,守蔵者也。其出也,窃蔵以逃,尽用以求納之。及入,求見。公辞焉以沐。謂僕人曰:「沐則心覆,心覆則図反,宜吾不得見也。居者為社稷之守,行者為羈絏之僕,其亦可也,何必罪居者?国君而讎匹夫,懼者甚衆矣。」僕人以告,公遽見之。狄人帰季隗于晋,而請其二子。文公妻趙衰,生原同、屏括、摟嬰。趙姫請逆盾与其母。子余辞。姫曰:「得寵而忘旧,何以使人?必逆之。」固請,許之。来,以盾為才,固請于公,以為嫡子,而使其三子下之。以叔隗為内子,而己下之。
書き下し
初め、晉侯の豎頭須は、藏を守る者なり。其の出づるや、藏を竊みて以て逃れ、盡く用ゐて以て之を納れんことを求む。入るに及び、見えんことを求む。公辭するに沐を以てす。僕人に謂ひて曰く、「沐すれば則ち心覆る、心覆れば則ち圖反す、宜なり吾の見ゆるを得ざるや。居る者は社稷の守為り、行く者は羈絏の僕為り、其れ亦た可なり、何ぞ必ずしも居る者を罪せん。國君にして匹夫を讎とせば、懼るる者甚だ眾からん」と。僕人以て告ぐ、公遽かに之に見ゆ。狄人季隗を晉に歸して、其の二子を請ふ。文公趙衰に妻はす、原同・屏括・摟嬰を生む。趙姬盾と其の母とを逆へんと請ふ。子餘辭す。姬曰く、「寵を得て舊を忘れば、何を以てか人を使はん。必ず之を逆へよ」と。固く請ひ、之を許す。來たる、盾を以て才と為し、固く公に請ひて、以て嫡子と為し、而して其の三子をして之に下らしむ。叔隗を以て內子と為し、而して己之に下る。
現代語訳
これより前、晋侯(文公)の小姓の頭須(とうしゅ)は、財物の蔵の番をする者であった。重耳が国を出たとき、頭須は蔵の財物を盗んで逃げ、それをすべて使って重耳を帰国させる運動をした。重耳が帰国して即位すると、頭須は面会を求めた。文公は髪を洗っているからと断った。頭須は取り次ぎの者に言った。「髪を洗うときは頭を下げるので心がひっくり返る。心がひっくり返れば考えも逆さまになる。私が会っていただけないのももっともだ。国に残った者は社稷を守る役を果たし、君に従って出た者は手綱を負って仕える供を務めた。どちらもそれでよいのだ。どうして残った者だけを罪とする必要があろう。一国の君でありながら一介の男を仇とするなら、恐れる者は非常に多いだろう」。取り次ぎの者がこれを伝えると、文公はすぐに頭須に会った。狄の人々は季隗を晋に送り返し、二人の子(伯鯈・叔劉)については狄にとどめたいと願った。文公は娘(趙姫)を趙衰に嫁がせ、原同・屏括・摟嬰が生まれた。趙姫は、趙盾とその母(叔隗、趙衰が狄で娶った妻)を晋に迎えるよう願った。子余(趙衰)は辞退した。趙姫は言った。「寵愛を得て昔の人を忘れるようでは、どうして人を使うことができましょう。必ずお迎えください」。強く願ったので、趙衰は許した。二人が来ると、趙姫は趙盾を才能ある者と見て、文公に強く願って趙盾を嫡子とし、自分の生んだ三人の子をその下に置いた。また叔隗を正妻とし、自分はその下についた。
解説
この章句が説くこと
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史記 李斯列伝臣聞く、地広き者は粟多く、国大なる者は人衆く、兵彊ければ則ち士勇なりと。是を以て太山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成す。河海は細流を択ばず、故に能く其の深きを就す。王者は衆庶を卻けず、故に能く其の徳を明らかにす。是を以て地に四方無く、民に異国無く、四時充美にして、鬼神福を降す。此れ五帝・三王の敵無き所以なり。今乃ち黔首を棄てて以て敵国に資し、賓客を卻けて以て諸侯に業し、天下の士をして退きて敢て西に向かはず、足を裹みて秦に入らざらしむ。此れ所謂「寇に兵を藉して盗に糧を齎す」者なり。夫れ物の秦に産せずして、宝とすべき者多し。士の秦に産せずして、忠を願ふ者衆し。今客を逐ひて以て敵国に資し、民を損じて以て讎を益し、内自ら虚しくして外怨みを諸侯に樹つ。国の危ふき無きを求むるも、得べからざるなり、と。秦王乃ち逐客の令を除き、李斯の官を復し、卒に其の計謀を用ふ。
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史記 酈生陸賈列伝酈生食其(れきせいいき)は、陳留高陽の人なり。読書を好み、家貧しく落魄して、以て衣食の業を為す無く、里の監門の吏と為る。然れども県中の賢豪敢へて役せず、県中皆之を狂生と謂ふ。陳勝・項梁等の起こるに及び、諸将の地を徇へて高陽を過ぐる者数十人、酈生其の将皆握齱(あくさく)として苛礼を好み自ら用ひ、大度の言を聴く能はずと聞き、酈生乃ち深く自ら蔵匿す。後に沛公兵を将ゐて地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士、適(たまたま)酈生の里中の子なり、沛公時時邑中の賢士豪俊を問ふ。騎士帰る。酈生見えて之に謂ひて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易(あなど)るも、大略多しと。此れ真に吾が従ひて游ばんと願ふ所なり、我が為に先(さきだ)つ莫し。若し沛公に見えなば、謂ひて曰へ、『臣が里中に酈生有り、年六十余、長八尺、人皆之を狂生と謂ふも、生は自ら我は狂生に非ずと謂ふ』と」と。騎士曰く、「沛公は儒を好まず、諸客の儒冠を冠して来たる者あれば、沛公輒ち其の冠を解き、其の中に溲溺(そうでき)す。人と言ふに、常に大いに罵る。未だ儒生を以て説くべからざるなり」と。酈生曰く、「弟(ただ)之を言へ」と。騎士従容として酈生の誡むる所の如く言ふ。沛公高陽の伝舎に至り、人をして酈生を召さしむ。酈生至り、入りて謁す。沛公方に床に倨して両女子をして足を洗はしめ、而して酈生を見る。酈生入り、則ち長揖して拝せず、曰く、「足下は秦を助けて諸侯を攻めんと欲するか。且(はた)諸侯を率ゐて秦を破らんと欲するか」と。沛公罵りて曰く、「豎儒(じゅじゅ)。夫れ天下同じく秦に苦しむこと久し、故に諸侯相率ゐて秦を攻む。何ぞ秦を助けて諸侯を攻むと謂ふや」と。酈生曰く、「必ず徒を聚め義兵を合はせて無道の秦を誅せんとならば、宜しく倨して長者を見るべからず」と。是に於て沛公洗ふを輟め、起ちて衣を摂(ととの)へ、酈生を延きて上坐せしめ、
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史記 季布欒布列伝季布は、楚の人なり。気を為し任侠たり、楚に名有り。項籍兵を将ゐしめ、数々漢王を窘む。項羽滅ぶるに及び、高祖布を千金に購求し、敢へて舎匿する有らば、罪三族に及ぶとす。季布濮陽の周氏に匿る。周氏曰く「漢将軍を購ふこと急なり、跡且に臣の家に至らんとす、将軍能く臣に聴かば、臣敢へて計を献ぜん。即し能はずんば、願はくは先づ自剄せん」と。季布之を許す。乃ち季布を髡鉗し、褐衣を衣せ、広柳車の中に置き、并びに其の家僮数十人と、魯の朱家の所に之きて之を売る。朱家心に是れ季布なるを知り、乃ち買ひて之を田に置く。其の子を誡めて曰く「田事は此の奴に聴け、必ず与に食を同じくせよ」と。朱家乃ち軺車に乗りて洛陽に之き、汝陰侯滕公に見ゆ。滕公朱家を留めて飲むこと数日。因りて滕公に謂ひて曰く「季布何の大罪ありて、上之を求むること急なるや」と。滕公曰く「布数々項羽の為に上を窘む、上之を怨む、故に必ず之を得んと欲す」と。朱家曰く「君季布を視ること何如なる人ぞ」と。曰く「賢者なり」と。朱家曰く「臣は各々其の主の為に用ひらる、季布の項籍の為に用ひらるるは、職のみ。項氏の臣尽く誅すべけんや。今上始めて天下を得て、独り己の私怨を以て一人を求む、何ぞ天下に広からざるを示すや。且つ季布の賢を以てして漢之を求むること此くの如く急なれば、此れ北のかた胡に走らずんば即ち南のかた越に走らんのみ。夫れ壮士を忌みて以て敵国に資するは、此れ伍子胥の荊の平王の墓に鞭うちし所以なり。君何ぞ従容として上の為に言はざるや」と。汝陰侯滕公心に朱家の大侠なるを知り、季布其の所に匿るると意ひ、乃ち許して曰く「諾」と。間を待ちて、果たして朱家の指の如く言ふ。上乃ち季布を赦す。是の時に当たり、諸公皆季布の能く剛を摧きて柔と為すを多とし、
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史記 酈生陸賈列伝使者対へて曰く、「状貌大儒に類し、儒衣を衣、側注を冠す」と。沛公曰く、「我が為に之に謝せよ。我方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらずと言へ」と。使者出でて謝して曰く、「沛公敬んで先生に謝す、方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらざるなり」と。酈生目を瞋らし剣を案じて使者を叱して曰く、「走れ。復た入りて沛公に言へ、吾は高陽の酒徒なり、儒人に非ざるなりと」と。使者懼れて謁を失ひ、跪きて謁を拾ひ、還り走り、復た入りて報じて曰く、「客は天下の壮士なり。臣を叱す、臣恐れて、謁を失ふに至る。曰く、『走れ。復た入りて言へ、而公(だいこう)は高陽の酒徒なり』と」と。沛公遽かに足を雪(すす)ぎ矛を杖つきて曰く、「客を延きて入れよ」と。酈生入り、沛公に揖して曰く、「足下甚だ苦しみ、衣を暴し冠を露し、兵を将ゐて楚を助けて不義を討つ。足下何ぞ自ら喜ばざるや。臣事を以て見えんと願ふに、而も曰く、『吾方に天下を以て事と為し、未だ儒人に見ゆるに暇あらざるなり』と。夫れ足下天下の大事を興して天下の大功を成さんと欲するに、而も目を以て皮相せば、恐らくは天下の能士を失はん。且つ吾足下の智を度るに吾に如かず、勇も又吾に如かず。若し天下を就さんと欲して相見えずんば、窃かに足下の為に之を失へりとす」と。沛公謝して曰く、「郷(さき)には先生の容を聞き、今は先生の意を見る」と。乃ち延きて之を坐せしめ、天下を取る所以の者を問ふ。酈生曰く、「夫れ足下大功を成さんと欲せば、陳留に止まるに如かず。陳留は天下の拠衝なり、兵の会地なり。積粟数千万石、城守甚だ堅し。臣素より其の令に善し、願はくは足下の為に之に説かん。臣に聴かずんば、臣請ふ足下の為に之を殺して、陳留を下さん。足下陳留の衆を将ゐ、陳留の城に拠りて、其の積粟を食み、天下の従兵を招け。従兵已に成らば、足下天下に横行し、能く足下を害する者有る莫からん」と。沛公曰く、「敬んで命を聞く」と。
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『春秋左氏伝』哀公二年 公孫尨、主の徳に報ゆ鄭の師大いに敗れ、齊の粟千車を獲たり。趙孟喜びて曰く、「可なり」と。傅傁曰く、「鄭に克つと雖も、猶ほ知在る有り。憂ひ未だ艾(や)まざるなり」と。初め、周人、范氏に田を與ふ。公孫尨焉に稅す。趙氏得て之を獻ず。吏之を殺さんことを請ふ。趙孟曰く、「其の主の為にするなり。何の罪かあらん」と。止めて之に田を與ふ。鐵の戰に及び、徒五百人を以て、宵に鄭の師を攻め、蜂旗を子姚の幕下に取りて、獻じて曰く、「請ふ主の德に報いん」と。鄭の師を追ふ。姚・般・公孫林、殿して射る。前列多く死す。趙孟曰く、「國に小無し」と。既に戰ひて、簡子曰く、「吾弢に伏して血を嘔けども、鼓音衰へず。今日我上なり」と。大子曰く、「吾主を車に救ひ、敵を下に退く。我は右の上なり」と。郵良曰く、「我が兩靷將に絕えんとす。吾能く之を止む。我は御の上なり」と。駕して材に乘るに、兩靷皆絕ゆ。吳の洩庸、蔡に如きて聘を納れ、而して稍く師を納る。師畢く入り、眾之を知る。蔡侯大夫に告げ、公子駟を殺して以て說く。哭して墓を遷す。冬、蔡、州來に遷る。
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史記 秦本紀百里傒譲りて曰く、「臣は臣の友蹇叔に及ばず。蹇叔は賢にして世知る莫し。臣常に游びて斉に困しみ、食を銍人に乞ふ。蹇叔臣を収む。臣因りて斉君無知に事へんと欲す。蹇叔臣を止む。臣斉の難を脱るるを得て、遂に周に之く。周の王子穨牛を好む。臣牛を養ふを以て之に干む。穨臣を用ゐんと欲するに及び、蹇叔臣を止む。臣去りて、誅せられざるを得たり。虞君に事ふ。蹇叔臣を止む。臣虞君の臣を用ゐざるを知るも、臣誠に禄爵を私利し、且く留まる。再び其の言を用ゐて、脱るるを得、一たび用ゐずして、虞君の難に及ぶ。是を以て其の賢を知る」と。是に於て繆公人をして幣を厚くして蹇叔を迎へしめ、以て上大夫と為す。秋、繆公自ら将として晋を伐ち、河曲に戦ふ。晋の驪姫乱を作し、太子申生新城に死し、重耳・夷吾出奔す。九年、斉の桓公諸侯を葵丘に会す。晋の献公卒す。驪姫の子奚斉を立つ。其の臣里克奚斉を殺す。荀息卓子を立つ。克又卓子及び荀息を殺す。夷吾人をして秦に請はしめ、晋に入らんことを求む。是に於て繆公之を許し、百里傒をして兵を将ゐて夷吾を送らしむ。夷吾謂ひて曰く、「誠に立つを得ば、請ふ晋の河西の八城を割きて秦に与へん」と。至るに及び、已に立ちて、丕鄭をして秦に謝せしめ、約に背きて河西の城を与へず、而して里克を殺す。丕鄭之を聞き、恐れ、因りて繆公と謀りて曰く、「晋人夷吾を欲せず、実は重耳を欲す。今秦の約に背きて里克を殺すは、皆呂甥・郤芮の計なり。願はくは君利を以て急ぎ呂・郤を召せ。呂・郤至らば、則ち更めて重耳を入るること便ならん」と。繆公之を許し、人をして丕鄭と帰り、呂・郤を召さしむ。呂・郤等丕鄭に間有るを疑ひ、乃ち夷吾に言ひて丕鄭を殺す。丕鄭の子丕豹秦に奔り、繆公に説きて曰く、「晋君無道にして、百姓親しまず、伐つ可し」と。繆公曰く、「百姓苟も便ならずんば、何の故に能く其の大臣を誅せんや。能く其の大臣を誅す、此れ其の調ふなり」と。
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