春秋左氏伝 / 僖公十八年 兵を鋳る無かれ
十八年春,宋襄公以諸侯伐齊。三月,齊人殺無虧。鄭伯始朝于楚。楚子賜之金,既而悔之,與之盟曰:「無以鑄兵。」故以鑄三鍾。齊人將立孝公,不勝四公子之徒,遂與宋人戰。夏,五月,宋敗齊師于甗,立孝公而還。秋,八月,葬齊桓公。冬,邢人、狄人伐衛,圍菟圃。衛侯以國讓父兄子弟,及朝眾,曰:「苟能治之,燬請從焉。」眾不可,而從師于訾婁。狄師還。梁伯益其國而不能實也,命曰「新里」,秦取之。
新字:十八年春,宋襄公以諸侯伐斉。三月,斉人殺無虧。鄭伯始朝于楚。楚子賜之金,既而悔之,与之盟曰:「無以鋳兵。」故以鋳三鍾。斉人将立孝公,不勝四公子之徒,遂与宋人戦。夏,五月,宋敗斉師于甗,立孝公而還。秋,八月,葬斉桓公。冬,邢人、狄人伐衛,囲菟圃。衛侯以国譲父兄子弟,及朝衆,曰:「苟能治之,燬請従焉。」衆不可,而従師于訾婁。狄師還。梁伯益其国而不能実也,命曰「新里」,秦取之。
書き下し
十八年春、宋の襄公諸侯を以て齊を伐つ。三月、齊人無虧を殺す。鄭伯始めて楚に朝す。楚子之に金を賜ひ、既にして之を悔い、之と盟ひて曰く、「以て兵を鑄ること無かれ」と。故に以て三鍾を鑄る。齊人將に孝公を立てんとして、四公子の徒に勝たず、遂に宋人と戰ふ。夏、五月、宋齊の師を甗に敗り、孝公を立てて還る。秋、八月、齊の桓公を葬る。冬、邢人・狄人衛を伐ち、菟圃を圍む。衛侯國を以て父兄子弟に讓り、及び眾を朝して曰く、「苟も能く之を治めば、燬請ふ焉に從はん」と。眾可かずして、師を訾婁に從ふ。狄の師還る。梁伯其の國を益して實たす能はず、命じて「新里」と曰ふ、秦之を取る。
現代語訳
十八年の春、宋の襄公が諸侯を率いて斉を攻めた。三月、斉の人々は無虧を殺した。鄭伯(文公)が初めて楚に朝見した。楚子(成王)は鄭伯に銅を与えたが、すぐにそれを後悔し、鄭伯と盟約を結んで言った。「この銅で武器を鋳造してはならない」。そこで鄭伯はその銅で三つの鐘を鋳造した。斉の人々は孝公を立てようとしたが、他の四公子の一党に勝てず、ついに孝公を擁する宋と戦った。夏五月、宋は甗で斉軍を破り、孝公を立てて引き揚げた。秋八月、斉の桓公を葬った。冬、邢と狄が衛を攻め、菟圃を包囲した。衛侯(文公)は国を父兄や子弟たちに譲ろうとし、さらに人々を朝廷に集めて言った。「もし国を治められる者がいるなら、私、燬(衛侯の名)はその人に従いたい」。人々は承知せず、衛侯に従って訾婁に軍を出した。狄の軍は引き返した。梁伯は国の領域を広げたものの、そこに住む人を満たすことができず、その地を「新里」と名づけていたが、秦がこれを奪った。
解説
この章句が説くこと
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葉隠・聞書第一何某(なにがし)申し候は、「しおがれ浪人などと云うは、難儀千万(なんぎせんばん)この上なき様に皆人思うて、その期(ご)には殊(こと)の外(ほか)しおがれ草臥(くたび)るる事なり。浪人して後(のち)は左程(さほど)にはなきものなり。今一度(いまいちど)浪人仕(つかまつ)りたし。」と云う。もっともの事なり。死の道も、平生(へいぜい)に死習(しになら)うては、心安(こころやす)く死ぬべき事なり。奉公人の打留(うちどめ)は浪人切腹(せっぷく)に極(きわ)まりたると、兼ねて覚悟すべきなり。災難は前方(ぜんぽう)了簡(りょうけん)したる程には無きものなるを、先を量(はか)つて苦しむは愚かなる事なり。
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葉隠・聞書第一打返しの仕様(しよう)は、踏懸けて切り殺さるるまでなり。これにて恥(はじ)にならぬなり。仕果(しは)たすべしと思ふゆゑ、間(ま)に合はず。向(むこう)は大勢(おおぜい)などと云ひて時を移し、しまり止(どめ)になる相談に極(きわ)まるなり。相手何千人もあれ、片端(かたはし)より撫切(なでぎ)りと思ひ定めて、立ち向ふまでにて成就(じょうじゅ)なり。多分(たぶん)仕(し)済ますものなり。又(また)浅野殿(あさのどの)浪人(ろうにん)夜討(ようち)も、泉岳寺(せんがくじ)にて腹切らぬが落度(おちど)なり。又主(しゅ)を討たせて、敵(かたき)を討つ事延び延びなり。若(も)し、その内に吉良殿(きらどの)病死の時は残念千万なり。上方衆(かみがたしゅう)は智慧(ちえ)かしこきゆゑ、褒めらるる仕様は上手(じょうず)なれども、長崎喧嘩(ながさきけんか)の様に無分別(むふんべつ)にする事はならぬなり。又曾我殿(そがどの)夜討も殊(こと)の外(ほか)の延引(えんいん)。幕(まく)の紋(もん)見物(けんぶつ)の時、祐成(すけなり)図(ず)をはづしたり。不運の事なり。五郎(ごろう)申し様(よう)見事なり。総(そう)じてかやうの批判(ひはん)はせぬものなれども、これも武道(ぶどう)の吟味(ぎんみ)なれば申すなり。前方(ぜんぽう)に吟味して置かねば、行(ゆ)き当りて分別(ふんべつ)出来(でき)合はぬゆゑ、おおかた恥になり候。話を聞き覚え、物の本を見るも、かねての覚悟のためなり。就中(なかんずく)、武道は今日の事も知らずと思ひて、日々夜々(ひびよよ)に箇条(かじょう)を立てて吟味すべき事なり。時の行掛(ゆきがか)りにて勝負はあるべし。恥をかかぬ仕様は別(べつ)なり。死ぬまでなり。これには智慧も業(わざ)も入らぬなり。死ぬまでといふは勝負を考へず、無二無三(むにむざん)に死狂(しにぐる)ひするばかりなり。これにて夢(ゆめ)覚むるなり。
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論語・憲問篇子曰く、『士にして居を懐(おも)えば、以て士と為すに足らず。』
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