春秋左氏伝 / 僖公十五年 外彊中乾
晉侯謂慶鄭曰:「寇深矣,若之何?」對曰:「君實深之,可若何?」公曰:「不孫。」卜右,慶鄭吉。弗使,步揚御戎,家僕徒為右。乘小駟,鄭入也。慶鄭曰:「古者大事,必乘其產。生其水土而知其人心,安其教訓,而服習其道,唯所納之,無不如志。今乘異產以從戎事,及懼而變,將與人易。亂氣狡憤,陰血周作,張脈僨興,外彊中乾。進退不可,周旋不能,君必悔之。」弗聽。九月,晉侯逆秦師,使韓簡視師。復曰:「師少於我,鬥士倍我。」公曰:「何故?」對曰:「出因其資,入用其寵,饑食其粟,三施而無報,是以來也。今又擊之,我怠秦奮,倍猶未也。」公曰:「一夫不可狃,況國乎?」遂使請戰,曰:「寡人不佞,能合其眾而不能離也。君若不還,無所逃命。」秦伯使公孫枝對曰:「君之未入,寡人懼之,入而未定列,猶吾憂也。苟列定矣,敢不承命?」韓簡退曰:「吾幸而得囚。」
新字:晋侯謂慶鄭曰:「寇深矣,若之何?」対曰:「君実深之,可若何?」公曰:「不孫。」卜右,慶鄭吉。弗使,歩揚御戎,家僕徒為右。乗小駟,鄭入也。慶鄭曰:「古者大事,必乗其産。生其水土而知其人心,安其教訓,而服習其道,唯所納之,無不如志。今乗異産以従戎事,及懼而変,将与人易。乱気狡憤,陰血周作,張脈僨興,外彊中乾。進退不可,周旋不能,君必悔之。」弗聴。九月,晋侯逆秦師,使韓簡視師。復曰:「師少於我,鬥士倍我。」公曰:「何故?」対曰:「出因其資,入用其寵,饑食其粟,三施而無報,是以来也。今又撃之,我怠秦奮,倍猶未也。」公曰:「一夫不可狃,況国乎?」遂使請戦,曰:「寡人不佞,能合其衆而不能離也。君若不還,無所逃命。」秦伯使公孫枝対曰:「君之未入,寡人懼之,入而未定列,猶吾憂也。苟列定矣,敢不承命?」韓簡退曰:「吾幸而得囚。」
書き下し
晉侯慶鄭に謂ひて曰く、「寇深し、之を若何せん」と。對へて曰く、「君實に之を深くす、若何すべけん」と。公曰く、「孫ならず」と。右を卜す、慶鄭吉なり。使はず。步揚戎を御し、家僕徒右と為る。小駟に乘る、鄭の入れしなり。慶鄭曰く、「古は大事には、必ず其の產に乘る。其の水土に生まれて其の人の心を知り、其の教訓に安んじて、其の道に服習す。唯だ之を納るる所、志の如くならざる無し。今異產に乘りて以て戎事に從はば、懼るるに及びて變じ、將に人と易らんとす。亂氣狡憤し、陰血周く作り、張脈僨興し、外彊くして中乾く。進退可ならず、周旋能はず、君必ず之を悔いん」と。聽かず。九月、晉侯秦の師を逆へ、韓簡をして師を視しむ。復して曰く、「師は我より少なく、鬥士は我に倍す」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「出づるには其の資に因り、入るには其の寵を用ゐ、饑ゑては其の粟を食らふ。三たび施して報無し、是を以て來るなり。今又之を擊たば、我は怠り秦は奮ふ、倍すとも猶ほ未だしきなり」と。公曰く、「一夫すら狃るべからず、況んや國をや」と。遂に戰を請はしめて曰く、「寡人佞ならず、能く其の眾を合はすれども離す能はず。君若し還らずんば、命を逃るる所無からん」と。秦伯公孫枝をして對へしめて曰く、「君の未だ入らざるや、寡人之を懼れ、入りて未だ列を定めざるも、猶ほ吾が憂ひなり。苟も列定まらば、敢へて命を承けざらんや」と。韓簡退きて曰く、「吾幸ひにして囚はるるを得ん」と。
現代語訳
晋侯(恵公)が慶鄭に言った。「敵は深く攻め込んできた。どうしたものか」。慶鄭は答えた。「君ご自身が深く攻め込ませたのです。どうしようがありましょう」。公は言った。「無礼な」。戦車の車右を誰にするか占うと、慶鄭が吉と出た。しかし公は慶鄭を用いなかった。歩揚が公の戦車の御者となり、家僕徒が車右となった。公の戦車を引くのは小駟という馬で、鄭から献上されたものであった。慶鄭が言った。「昔は大事のときには、必ず自国産の馬に乗りました。その土地の水と土で育った馬は、乗り手の心を知り、その調教に慣れ、その道筋をよく心得ています。どこへ向かわせても、思いどおりにならないことはありません。いま他国産の馬に乗って戦に臨めば、恐れにかられたとき性質が変わり、乗り手の思いと食い違うでしょう。気は乱れていきり立ち、血はめぐって騒ぎ、血管は張りつめて浮き上がり、外見は強そうでも中身はからっぽです。進むことも退くこともできず、向きを変えることもできず、君はきっと後悔なさいます」。公は聞き入れなかった。九月、晋侯は秦軍を迎え撃とうとして、韓簡に秦軍の様子を偵察させた。韓簡は戻って報告した。「兵の数はこちらより少ないのですが、闘志のある兵はこちらの倍です」。公は言った。「なぜだ」。韓簡は答えた。「君は国を出るときには秦の援助を頼り、国に帰るときには秦の後ろ盾を用い、飢饉のときには秦の穀物を食べました。三度も恩を受けながら報いていない。それで秦は攻めてきたのです。いままた彼らを迎え撃てば、こちらは気がゆるみ、秦は奮い立っています。倍どころではありません」。公は言った。「一人の男でさえ侮られてはならない。まして国ならなおさらだ」。こうして使者を送って戦いを申し込み、こう言わせた。「私は不才で、兵を集めることはできても、解散させることはできない。君がもし引き返されないなら、この命令から逃れる所はありません」。秦伯(穆公)は公孫枝に答えさせた。「君がまだ帰国されないうちは、私はそれを案じていました。帰国されてまだ位が定まらないうちも、私の心配の種でした。もし位が定まったのであれば、どうして御命令をお受けしないことがありましょう」。韓簡は退出して言った。「私は捕虜になれれば幸いというところだろう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
呂氏春秋・貴直④趙簡子、衛の附郭を攻むるに、自ら兵を將う。戰うに及びて、且に遠くに立たんとし、又犀蔽屏櫓の下に居る、之に鼓すれども士起たず。簡子、桴を投じて歎じて曰く、「鳴呼、士の遬弊すること一に此の若きか。」行人燭過、冑を免き戈を横たえて進みて曰く、「亦君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子艴然として色を作して曰く、「寡人の使う無くして、身自ら是の衆を将いるや、子親しく寡人の無能を謂う。說有らば則ち可なるも、說無くんば則ち死せん。」對えて曰く、「昔吾が先君獻公は位に即きて五年、國を兼ぬること十九、此の士を用いたるなり。惠公は位に即きて二年、淫色暴慢にして、身は玉女を好む。秦人我を襲い、絳を遜去すること七十、此の士を用いたるなり。文公位に即きて二年、之を底すに勇を以てす。故に三年にして士盡く果敢なり。城濮の戰い、五たび荊人を敗り、衛を圍み曹を取り、石社を抜き、天子の位を定め、尊名を天下に成す。此の士を用いたるなり。亦だ君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子乃ち犀蔽屏櫓を去りて、矢石の及ぶ所に立ち、一鼓して士畢く之に乘ず。簡子曰く、「吾、革車千乘を得ん與りは、行人燭過の一言を聞くに如かず。」行人燭過は能く其の君を諫めたりと謂う可し。戰鬭の上、枹鼓方に用いらる。賞は厚きを加えず、罰は重きを加えざるに、一言にして士皆其の上の為に死するを樂しむ。
-
『呻吟語』外篇・品藻・士氣と傲氣士氣は無かる可からず、傲氣は有る可からず。士氣なる者は、人己の分に明らかにして、正を守りて詭隨せず。傲氣なる者は、上下の等に昧くして、高きを好みて位に素せず。自ら處する者は每に人に傲るを以て士氣と為し、人を觀る者は每に士氣を以て人に傲ると為す。悲しいかな。故に惟だ士氣有る者のみ能く己を謙りて人に下る。
-
孫子・作戦篇故に智将は敵に食するを務む。敵に食する一鍾は、吾が二十鍾に当たり、萁稈一石は、吾が二十石に当たる。
-
史記 田単列伝唯だ独り莒と即墨とのみ下らず。燕軍、斉王の莒に在るを聞き、兵を并せて之を攻む。淖歯既に湣王を莒に殺し、因りて堅く守り、燕軍を距ぐこと数年、下らず。燕、兵を引きて東して即墨を囲む。即墨の大夫出でて与に戦ひ、敗れて死す。城中相与に田単を推して曰く、「安平の戦に、田単の宗人は鉄籠を以て全きを得たり。兵に習ふ」と。立てて以て将軍と為し、即墨を以て燕を距がしむ。頃之して、燕の昭王卒し、恵王立つ。楽毅と隙有り。田単之を聞き、乃ち反間を燕に縦ちて、宣言して曰く、「斉王已に死し、城の抜けざる者は二つのみ。楽毅は誅を畏れて敢て帰らず、斉を伐つを以て名と為すも、実は兵を連ねて南面して斉に王たらんと欲す。斉人未だ附かず、故に且く即墨を攻むるを緩めて以て其の事を待つ。斉人の懼るる所は、唯だ他将の来たらんことを恐るるのみ。即墨残はれん」と。燕王以て然りと為し、騎劫をして楽毅に代らしむ。楽毅因りて趙に帰し、燕人の士卒忿る。而して田単乃ち城中の人をして食ふに必ず其の先祖を庭に祭らしむ。飛鳥悉く城中に翔舞して下りて食ふ。燕人之を怪しむ。田単因りて宣言して曰く、「神来り下りて我に教ふ」と。乃ち城中の人に令して曰く、「当に神人の我が師と為る有るべし」と。一卒有りて曰く、「臣以て師と為るべきか」と。因りて反り走る。田単乃ち起ち、引きて還し、東嚮して坐せしめ、之に師事す。卒曰く、「臣、君を欺けり。誠に能無きなり」と。田単曰く、「子言ふ勿かれ」と。因りて之を師とす。約束を出だす毎に、必ず神師と称す。乃ち宣言して曰く、「吾は唯だ燕軍の得る所の斉の卒を劓し、之を前行に置きて我と戦はんことを懼る。即墨敗れん」と。燕人之を聞き、其の言の如くす。城中の人、斉の諸の降る者の尽く劓せらるるを見て、皆怒り、堅く守り、唯だ得らるるを恐る。単又反間を縦ちて曰く、「吾は燕人の吾が城外の冢墓を掘り、先人を僇しめんことを懼る。寒心すべし」と。燕軍尽く壟墓を掘り、死人を焼く。即墨の人、城上より望み見て、皆涕泣し、倶に出でて戦はんと欲し、怒り自ら十倍す。
-
李衛公問対・卷下故に用兵の法は、必ず先ず吾が士衆を察し、吾が勝氣を激して、乃ち以て敵を擊つべし。吳起の『四機』は、氣機を以て上と爲す。他の道無きなり。能く人人をして自ら鬬わしむれば、則ち其の銳當たる莫し。
-
史記 高祖本紀約に負き、更めて沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中に王とし、南鄭に都せしむ。関中を三分し、秦の三将を立つ。章邯を雍王と為し、廃丘に都せしむ。司馬欣を塞王と為し、櫟陽に都せしむ。董翳を翟王と為し、高奴に都せしむ。楚の将瑕丘の申陽を河南王と為し、洛陽に都せしむ。趙の将司馬卬を殷王と為し、朝歌に都せしむ。趙王歇徙りて代に王たり。趙の相張耳を常山王と為し、襄国に都せしむ。当陽君黥布を九江王と為し、六に都せしむ。懐王の柱国共敖を臨江王と為し、江陵に都せしむ。番君呉芮を衡山王と為し、邾に都せしむ。燕の将臧荼を燕王と為し、薊に都せしむ。故の燕王韓広徙りて遼東に王たり。広聴かず、臧荼攻めて之を無終に殺す。成安君陳余を河間の三県に封じ、南皮に居らしむ。梅鋗を十万戸に封ず。四月、兵戯下に罷み、諸侯各々国に就く。漢王国に之く、項王卒三万人をして従はしむ、楚と諸侯の慕ひて従ふ者数万人、杜の南より蝕中に入る。去れば輒ち棧道を焼き絶ち、以て諸侯の盗兵の之を襲ふに備へ、亦項羽に東する意無きを示す。南鄭に至る、諸将及び士卒多く道に亡げ帰る、士卒皆歌ひて東帰を思ふ。韓信漢王に説きて曰く、「項羽諸将の功有る者を王とし、而して王独り南鄭に居る、是れ遷なり。軍吏士卒は皆山東の人なり、日夜跂ちて帰らんことを望む、其の鋒に及びて之を用ゐば、以て大功有るべし。天下已に定まらば、人皆自ら寧んじ、復た用ゐるべからず。策を決して東に郷ひ、天下に権を争ふに如かず。」と。項羽関を出で、人をして義帝を徙さしむ。曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上游に居る。」と。乃ち使をして義帝を長沙の郴県に徙さしめ、義帝の行を趣す、群臣稍々之に倍叛す、乃ち陰かに衡山王・臨江王をして之を撃たしめ、義帝を江南に殺す。項羽田栄を怨み、斉の将田都を立てて斉王と為す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る