名将言行録 / 『名将言行録』木村重成 主君を諫める言葉
群居の輩其ゆゆしさを感じて一言も出さず、伊奈忠政御念入り候、早々御退出あれと申して、重成は退出せり。 ○元和元年、重成秀賴が臆せるを憂ひ、諫めて曰く、生あるもの誰か死を惜まざらん、去れども義に依て死を輕んずるは弓箭執る身の習にて候、平宗盛死を恐れて、笑を後世に殘せしは、君の知給ふ所なり、舊冬左衞門佐幸村が諫め奉るに依り、漸々一度御陣廻りありたるのみ、斯る御事にては御運開かせ給ふこと如何あるべきや、夫戰の勝敗は兵の多少にあらず、將の强臆に寄り候へば、仰ぎ願くは有功の者を賞し、軍氣を勵まし給ひ、戰あらんには、御身眞先掛て諸營を巡視し給ひて、將卒を勵まし給ふべしと。秀賴にも尤もなりとありて、其諫を納らる。
新字:群居の輩其ゆゆしさを感じて一言も出さず、伊奈忠政御念入り候、早々御退出あれと申して、重成は退出せり。 ○元和元年、重成秀頼が臆せるを憂ひ、諫めて曰く、生あるもの誰か死を惜まざらん、去れども義に依て死を軽んずるは弓箭執る身の習にて候、平宗盛死を恐れて、笑を後世に残せしは、君の知給ふ所なり、旧冬左衛門佐幸村が諫め奉るに依り、漸々一度御陣廻りありたるのみ、斯る御事にては御運開かせ給ふこと如何あるべきや、夫戦の勝敗は兵の多少にあらず、将の強臆に寄り候へば、仰ぎ願くは有功の者を賞し、軍気を励まし給ひ、戦あらんには、御身真先掛て諸営を巡視し給ひて、将卒を励まし給ふべしと。秀頼にも尤もなりとありて、其諫を納らる。
書き下し
群居の輩其ゆゆしさを感じて一言も出さず、伊奈忠政御念入り候、早々御退出あれと申して、重成は退出せり。 ○元和元年、重成秀賴が臆せるを憂ひ、諫めて曰く、生あるもの誰か死を惜まざらん、去れども義に依て死を輕んずるは弓箭執る身の習にて候、平宗盛死を恐れて、笑を後世に殘せしは、君の知給ふ所なり、舊冬左衞門佐幸村が諫め奉るに依り、漸々一度御陣廻りありたるのみ、斯る御事にては御運開かせ給ふこと如何あるべきや、夫戰の勝敗は兵の多少にあらず、將の强臆に寄り候へば、仰ぎ願くは有功の者を賞し、軍氣を勵まし給ひ、戰あらんには、御身眞先掛て諸營を巡視し給ひて、將卒を勵まし給ふべしと。秀賴にも尤もなりとありて、其諫を納らる。
現代語訳
居並ぶ人々はその堂々とした様子に感じ入り、一言も出しませんでした。伊奈忠政が、ご念の入ったことです、どうぞ早々にご退出ください、と申して、重成は退出しました。 ○元和元年、重成は秀頼が臆していることを憂えて、諫めて言いました。生あるものは誰が死を惜しまないでしょうか。しかし、義に従って死を軽んじるのは、弓矢取る身の習いでございます。平宗盛が死を恐れて、笑いを後世に残したことは、君もご存じのことです。去年の冬、左衛門佐幸村がお諫め申し上げたので、ようやく一度陣廻りをなさっただけでした。このようなことでは、ご運を開かれることはいかがでしょうか。そもそも戦の勝敗は兵の多少によるものではなく、将の強弱によるものでございますので、お願いですから、功のある者を賞し、軍の気勢を励まし、戦があるときは、御身が真っ先に掛かって諸営を巡視され、将卒を励ましてくださいますよう、と申しました。秀頼ももっともだと、その諫めを納められました。
解説

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呂氏春秋・貴直④趙簡子、衛の附郭を攻むるに、自ら兵を將う。戰うに及びて、且に遠くに立たんとし、又犀蔽屏櫓の下に居る、之に鼓すれども士起たず。簡子、桴を投じて歎じて曰く、「鳴呼、士の遬弊すること一に此の若きか。」行人燭過、冑を免き戈を横たえて進みて曰く、「亦君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子艴然として色を作して曰く、「寡人の使う無くして、身自ら是の衆を将いるや、子親しく寡人の無能を謂う。說有らば則ち可なるも、說無くんば則ち死せん。」對えて曰く、「昔吾が先君獻公は位に即きて五年、國を兼ぬること十九、此の士を用いたるなり。惠公は位に即きて二年、淫色暴慢にして、身は玉女を好む。秦人我を襲い、絳を遜去すること七十、此の士を用いたるなり。文公位に即きて二年、之を底すに勇を以てす。故に三年にして士盡く果敢なり。城濮の戰い、五たび荊人を敗り、衛を圍み曹を取り、石社を抜き、天子の位を定め、尊名を天下に成す。此の士を用いたるなり。亦だ君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子乃ち犀蔽屏櫓を去りて、矢石の及ぶ所に立ち、一鼓して士畢く之に乘ず。簡子曰く、「吾、革車千乘を得ん與りは、行人燭過の一言を聞くに如かず。」行人燭過は能く其の君を諫めたりと謂う可し。戰鬭の上、枹鼓方に用いらる。賞は厚きを加えず、罰は重きを加えざるに、一言にして士皆其の上の為に死するを樂しむ。
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