春秋左氏伝 / 荘公六年・七年 鄧侯、臍を噬む
六年春,王人救衛。夏,衛侯入,放公子黔牟于周,放甯跪于秦,殺左公子泄、右公子職,乃即位。君子以二公子之立黔牟爲不度矣。夫能固位者,必度於本末而後立衷焉。不知其本,不謀。知本之不枝,弗強。《詩》云:『本枝百世。』冬,齊人來歸衛寶,文姜請之也。楚文王伐申,過鄧。鄧祁侯曰:『吾甥也。』止而享之。騅甥、聃甥、養甥請殺楚子,鄧侯弗許。三甥曰:『亡鄧國者,必此人也。若不早圖,後君噬齊。其及圖之乎?圖之,此爲時矣。』鄧侯曰:『人將不食吾餘。』對曰:『若不從三臣,抑社稷實不血食,而君焉取餘?』弗從。還年,楚子伐鄧。十六年,楚複伐鄧,滅之。七年春,文姜會齊侯于防,齊志也。夏,恒星不見,夜明也。星隕如雨,與雨偕也。秋,無麥苗,不害嘉穀也。
新字:六年春,王人救衛。夏,衛侯入,放公子黔牟于周,放甯跪于秦,殺左公子泄、右公子職,乃即位。君子以二公子之立黔牟為不度矣。夫能固位者,必度於本末而後立衷焉。不知其本,不謀。知本之不枝,弗強。《詩》云:『本枝百世。』冬,斉人来帰衛宝,文姜請之也。楚文王伐申,過鄧。鄧祁侯曰:『吾甥也。』止而享之。騅甥、聃甥、養甥請殺楚子,鄧侯弗許。三甥曰:『亡鄧国者,必此人也。若不早図,後君噬斉。其及図之乎?図之,此為時矣。』鄧侯曰:『人将不食吾余。』対曰:『若不従三臣,抑社稷実不血食,而君焉取余?』弗従。還年,楚子伐鄧。十六年,楚複伐鄧,滅之。七年春,文姜会斉侯于防,斉志也。夏,恒星不見,夜明也。星隕如雨,与雨偕也。秋,無麦苗,不害嘉穀也。
書き下し
六年春、王人衛を救ふ。夏、衛侯入る。公子黔牟を周に放ち、甯跪を秦に放ち、左公子泄・右公子職を殺し、乃ち位に即く。君子二公子の黔牟を立つるを以て度らずと爲す。夫れ能く位を固くする者は、必ず本末を度りて而る後に衷を立つ。其の本を知らずんば、謀らず。本の枝ならざるを知らば、強ひず。《詩》に云ふ、「本枝百世」と。冬、齊人來りて衛の寶を歸る。文姜之を請へばなり。楚の文王申を伐ち、鄧を過ぐ。鄧の祁侯曰く、「吾が甥なり」と。止めて之を享す。騅甥・聃甥・養甥楚子を殺さんことを請ふ。鄧侯許さず。三甥曰く、「鄧國を亡ぼす者は、必ず此の人なり。若し早く圖らずんば、後に君齊(ほぞ)を噬まん。其れ及びて之を圖らんか。之を圖るは、此を時と爲す」と。鄧侯曰く、「人將に吾が餘を食はざらんとす」と。對へて曰く、「若し三臣に從はずんば、抑そも社稷實に血食せず、而して君焉くにか餘を取らん」と。從はず。還る年、楚子鄧を伐つ。十六年、楚複た鄧を伐ち、之を滅ぼす。七年春、文姜齊侯に防に會す。齊の志なり。夏、恒星見えず、夜明らかなり。星隕つること雨の如し、雨と偕にするなり。秋、麥苗無し、嘉穀を害せざるなり。
現代語訳
六年春、周王の役人が衛を救った。夏、衛侯(恵公)が衛に戻った。公子黔牟を周に追放し、甯跪(ねいき)を秦に追放し、左公子泄と右公子職を殺して、ようやく君位についた。君子は、二人の公子が黔牟を立てたのは思慮が足りなかったと評した。そもそも地位を固められる者は、必ず物事の根本と末端を見極めてから中正な方針を立てるものである。根本が分からないなら、事を謀らない。根本が枝葉を茂らせる力がないと分かっているなら、無理をしない。『詩経』に「根本と枝葉が百代続く」とある(黔牟には支えとなる根本がなかったのである)。冬、斉の人が(衛から得た)宝物を魯に届けてきた。文姜が頼んだからである。楚の文王が申を攻め、途中で鄧を通った。鄧の祁侯は「わが甥である」と言って引き止め、もてなした。騅甥・聃甥・養甥(鄧の三人の甥)が楚子を殺すよう願い出たが、鄧侯は許さなかった。三人の甥は言った。「鄧の国を滅ぼすのは、必ずこの人です。もし早く手を打たなければ、後で君はへそを噛む(後悔しても届かない)ことになります。今のうちに手を打つべきではありませんか。手を打つなら、今こそその時です」。鄧侯は言った。「そんなことをすれば、人々は私の供え物の残りを食べなくなるだろう(人望を失う)」。三人は答えた。「もし三人の臣の言に従わなければ、国の社稷にそもそも血の供え物が捧げられなくなります(国が滅びます)。そうなれば君はどこから供え物の残りを得るのですか」。鄧侯は従わなかった。申を攻めて帰る年に、楚子は鄧を攻めた。(荘公)十六年、楚は再び鄧を攻めて滅ぼした。七年春、文姜が斉侯と防で会った。斉の意向によるものである。夏、恒星が見えなかった。夜が明るかったからである。星が雨のように落ちた。雨とともに落ちたのである。秋、麦と苗が全滅した。(『春秋』が「無麦苗」とだけ書いて飢饉と記さなかったのは)ほかの主要な穀物には害がなかったからである。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』哀公二十六年 縦にして其の罪を盈たしめよ二十六年夏五月、叔孫舒、師を帥ゐて越の皋如・后庸、宋の樂茷に會し、衛侯を納れんとす。文子、之を納れんと欲す。懿子曰く、「君は愎にして虐なり。少しく之を待て。必ず民に毒せん。乃ち子に睦まん」と。師、外州を侵し、大いに獲。出でて之を禦ぎ、大いに敗る。褚師定子の墓を掘り、之を平莊の上に焚く。文子、王孫齊をして皋如に私せしめて曰く、「子、將に大いに衛を滅ぼさんとするか。抑も君を納るるのみか」と。皋如曰く、「寡君の命は他無し。衛君を納るるのみ」と。文子、衆を致して焉に問ひて曰く、「君、蠻夷を以て國を伐つ。國幾ど亡びんとす。請ふ、之を納れん」と。衆曰く、「納るること勿かれ」と。曰く、「彌牟亡びて益有らば、請ふ、北門より出でん」と。衆曰く、「出づること勿かれ」と。重く越人に賂し、申ねて開き陴を守りて公を納る。公、敢へて入らず。師還る。悼公を立つ。南氏之に相たり。城鉏を以て越人に與ふ。公曰く、「期則ち此を為す」と。苟も夫人に怨み有る者をして之に報いしむ。司徒期、越に聘す。公、攻めて其の幣を奪ふ。期、王に告ぐ。王、之を取らしむ。期、衆を以て之を取る。公怒りて、期の甥の大子為る者を殺す。遂に越に卒す。宋の景公、子無し。公孫周の子得と啟とを取りて、諸を公宮に畜ふ。未だ立つること有らず。是に於て皇緩は右師為り、皇非我は大司馬為り、皇懷は司徒為り、靈不緩は左師為り、樂茷は司城為り、樂朱鉏は大司寇為り。六卿三族、降りて政を聽き、大尹に因りて以て達す。大尹常に告げずして、其の欲を以て、君命と稱して以て令す。國人之を惡む。司城、大尹を去らんと欲す。左師曰く、「之を縱にして、其の罪を盈たしめよ。重くして基無し。能く敝るること無からんや」と。
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『春秋左氏伝』定公六年 人を尤めて之に效ふ六年春、鄭、許を滅ぼす。楚の敗るるに因るなり。二月、公、鄭を侵し、匡を取る。晉の為に鄭の胥靡を伐ちしを討つなり。往くに道を衛に假らず。還るに及びて、陽虎、季・孟をして南門より入り、東門より出でしめ、豚澤に舍る。衛侯怒り、彌子瑕をして之を追はしめんとす。公叔文子老いたり。輦して公に如きて曰く、「人を尤めて之に效ふは、禮に非ざるなり。昭公の難に、君將に文の舒鼎、成の昭兆、定の鞶鑑を以て、苟も以て之を納るべくんば、擇びて一を用ゐんとせり。公子と二三臣の子とは、諸侯苟も之を憂へば、將に以て之が質と為さんとせり。此れ群臣の聞く所なり。今將に小忿を以て舊德を蒙はんとす。乃ち不可なる無からんや。大姒の子、唯だ周公・康叔のみ相睦まじと為す。而るに小人に效ひて以て之を棄つるは、亦た誣ならずや。天、將に陽虎の罪を多くして以て之を斃さんとす。君姑く之を待て。若何」と。乃ち止む。夏、季桓子、晉に如く。鄭の俘を獻ずるなり。陽虎、強ひて孟懿子をして往きて夫人の幣に報いしむ。晉人、兼ねて之を享す。孟孫、房外に立ちて、范獻子に謂ひて曰く、「陽虎若し魯に居る能はずして、肩を晉に息ふ所に、以て中軍の司馬と為さずんば、先君の如き有らん」と。獻子曰く、「寡君に官有り、將に其の人を使はんとす。鞅何をか知らん」と。獻子、簡子に謂ひて曰く、「魯人、陽虎を患ふ。孟孫、其の釁を知り、以て必ず晉に適かんと為す。故に強ひて之が為に請ひて、以て入るることを取るなり」と。
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『春秋左氏伝』僖公七年 知臣は君に若くは莫し七年春、齊人鄭を伐つ。孔叔鄭伯に言ひて曰く、「諺に之れ有りて曰く、『心則ち競はずんば、何ぞ病を憚らん』と。既に彊なる能はず、又弱なる能はず、斃るる所以なり。國危し、請ふ齊に下りて以て國を救はん」と。公曰く、「吾其の由りて來る所を知れり。姑く少しく我を待て」と。對へて曰く、「朝に夕べに及ばず、何を以てか君を待たん」と。夏、鄭申侯を殺して以て齊に說く、且つ陳の轅濤塗の譖を用ゐればなり。初め、申侯は申の出なり、楚の文王に寵有り。文王將に死せんとするとき、之に璧を與へ、行かしめて曰く、「唯だ我女を知る。女は利を專らにして厭かず、予より取り予に求むれども、女を疵瑕とせざりき。後の人は、將に多くを女に求めんとす、女必ず免れじ。我死せば、女必ず速やかに行け。小國に適くこと無かれ、將に女を容れざらんとす」と。既に葬りて、出でて鄭に奔り、又厲公に寵有り。子文其の死を聞くや、曰く、「古人言有りて曰く、『臣を知るは君に若くは莫し』と。改むべからざるのみ」と。秋、甯母に盟ふ、鄭を謀るが故なり。管仲齊侯に言ひて曰く、「臣之を聞く、攜るるを招くには禮を以てし、遠きを懷くるには德を以てす。德禮易はらずんば、人として懷かざるは無し」と。齊侯禮を諸侯に脩め、諸侯の官方物を受く。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 子産、楚を禦がず冬、十月、楚子鄭を伐つ。鄭人將に之を禦がんとす。子產曰く、「晉・楚將に平らがんとし、諸侯將に和せんとす。楚王是の故に一たび來るに昧るのみ。逞くして歸らしむるに如かず。乃ち成り易からん。夫れ小人の性は、勇に釁き、禍に嗇り、以て其の性を足して、名を求むる者は、國家の利に非ざるなり。若何ぞ之に從はん」と。子展說び、寇を禦がず。十二月、乙酉、南里に入り、其の城を墮ち、樂氏に涉り、師之梁に門す。縣門發し、九人を獲たり。氾を涉りて歸る。而る後に許の靈公を葬る。衛人衛姬を晉に歸る。乃ち衛侯を釋す。君子是を以て平公の政を失ふを知る。晉の韓宣子周に聘す。王事を請はしむ。對へて曰く、「晉の士起將に時事を宰旅に歸せんとす。他事無し」と。王之を聞きて曰く、「韓氏其れ晉に昌阜ならんか。辭舊を失はず」と。齊人郟に城くの歲、其の夏、齊の烏餘廩丘を以て晉に奔る。衛の羊角を襲ひて之を取る。遂に我が高魚を襲ふ。大雨有り、其の竇より入り、其の庫に介して、以て其の城に登り、克ちて之を取る。又邑を宋に取る。是に於いて范宣子卒す。諸侯治むる能はず。趙文子政を為すに及び、乃ち卒に之を治む。文子晉侯に言ひて曰く、「晉盟主為り。諸侯或いは相侵さば、則ち討ちて其の地を歸さしむ。今烏餘の邑は、皆討類なり。而るに之を貪るは、是れ以て盟主為ること無きなり。請ふ之を歸さん」と。公曰く、「諾。孰か使ふべき」と。對へて曰く、「胥梁帶能く師を用ゐること無からん」と。晉侯往かしむ。
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『春秋左氏伝』定公七年 衛侯、斉に執らしむ七年春二月、周の儋翩、儀栗に入りて以て叛く。齊人、鄆・陽關を歸す。陽虎、之に居りて以て政を為す。夏四月、單武公・劉桓公、尹氏を窮谷に敗る。秋、齊侯・鄭伯、鹹に盟ひ、會を衛に徵す。衛侯、晉に叛かんと欲す。諸大夫可かず。北宮結をして齊に如かしめて、私かに齊侯に曰く、「結を執へて以て我を侵せ」と。齊侯、之に從ふ。乃ち瑣に盟ふ。齊の國夏、我を伐つ。陽虎、季桓子に御たり。公斂處父、孟懿子に御たり。將に宵に齊の師を軍せんとす。齊の師、之を聞き、墮して伏して之を待つ。處父曰く、「虎、禍を圖らず。而ち必ず死せん」と。苫夷曰く、「虎、二子を難に陷る。有司を待たず、余必ず女を殺さん」と。虎懼れ、乃ち還る。敗れず。冬十一月戊午、單子・劉子、王を慶氏に逆ふ。晉の籍秦、王を逆ふ。己巳、王、王城に入り、公族黨氏に館して、而る後に莊宮に朝す。
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『春秋左氏伝』荘公元年・三年 夫人、斉に孫る元年春、即位を稱せざるは、文姜出づるが故なり。三月、夫人齊に孫る。姜氏と稱せざるは、絕ちて親と爲さざればなり、禮なり。秋、王姬の館を外に築く。外に爲るは、禮なり。二年冬、夫人姜氏齊侯に禚に會す。姦を書すなり。三年春、溺齊の師に會して衛を伐つ。之を疾めばなり。夏五月、桓王を葬る。緩きなり。秋、紀季酅を以て齊に入る。紀是に於てか始めて判る。冬、公滑に次す。將に鄭伯に會して、紀の故を謀らんとす。鄭伯辭するに難を以てす。凡そ師、一宿を舍と爲し、再宿を信と爲し、信を過ぐるを次と爲す。
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