春秋左氏伝 / 桓公六年 太子忽、斉の縁談を辞す
夏,會于成。紀來諮謀齊難也。北戎伐齊,齊使乞師于鄭,鄭大子忽帥師救齊。六月,大敗戎師,獲其二帥,大良,少良。甲首三百,以獻於齊。於是諸侯之大夫戍齊。齊人饋之餼,使魯為其班,後鄭。鄭忽以其有功也,怒。故有郎之師。公之未昏於齊也。齊侯欲以文姜妻鄭大子。大子忽辭,人問其故,大子曰:「人各有耦,齊大,非吾耦也。《詩》云:『自求多福。』在我而已,大國何為?」君子曰:「善自為謀。」及其敗戎師也,齊侯又請妻之,固辭。人問其故,大子曰:「無事於齊,吾猶不敢。今以君命,奔齊之急,而受室以歸,是以師昏也,民其謂我何?」遂辭諸鄭伯。秋,大閱,簡車馬也。
新字:夏,会于成。紀来諮謀斉難也。北戎伐斉,斉使乞師于鄭,鄭大子忽帥師救斉。六月,大敗戎師,獲其二帥,大良,少良。甲首三百,以献於斉。於是諸侯之大夫戍斉。斉人饋之餼,使魯為其班,後鄭。鄭忽以其有功也,怒。故有郎之師。公之未昏於斉也。斉侯欲以文姜妻鄭大子。大子忽辞,人問其故,大子曰:「人各有耦,斉大,非吾耦也。《詩》云:『自求多福。』在我而已,大国何為?」君子曰:「善自為謀。」及其敗戎師也,斉侯又請妻之,固辞。人問其故,大子曰:「無事於斉,吾猶不敢。今以君命,奔斉之急,而受室以帰,是以師昏也,民其謂我何?」遂辞諸鄭伯。秋,大閲,簡車馬也。
書き下し
夏、成に會す。紀來りて齊の難を諮り謀るなり。北戎齊を伐つ。齊師を鄭に乞はしむ。鄭の大子忽師を帥ゐて齊を救ふ。六月、大いに戎の師を敗り、其の二帥大良・少良を獲、甲首三百、以て齊に獻ず。是に於て諸侯の大夫齊を戍る。齊人之に餼を饋り、魯をして其の班を為さしむ、鄭を後にす。鄭の忽其の功有るを以て、怒る。故に郎の師有り。公の未だ齊に昏せざるや、齊侯文姜を以て鄭の大子に妻はせんと欲す。大子忽辭す。人其の故を問ふ。大子曰く、「人各おの耦有り、齊は大なり、吾が耦に非ず。《詩》に云ふ、『自ら多福を求む』と。我に在るのみ、大國何をか為さん」と。君子曰く、「善く自ら謀を為す」と。其の戎の師を敗るに及ぶや、齊侯又之に妻はせんことを請ふ。固く辭す。人其の故を問ふ。大子曰く、「齊に事無きときすら、吾猶ほ敢へてせず。今君命を以て、齊の急に奔りて、室を受けて以て歸らば、是れ師を以て昏するなり。民其れ我を何とか謂はん」と。遂に諸を鄭伯に辭す。秋、大いに閲す、車馬を簡ぶなり。
現代語訳
夏、(魯の桓公が紀侯と)成で会合した。紀が斉から受けている圧迫について相談しに来たのである。北戎が斉を攻めた。斉は鄭に使者を送って援軍を求め、鄭の太子忽(こつ、のちの昭公)が軍を率いて斉を救った。六月、戎の軍を大いに破り、その二人の将、大良と少良を捕らえ、甲冑をつけた兵の首三百を斉に献上した。このとき諸侯の大夫たちが斉の守備にあたっていた。斉の人は彼らに食糧や家畜を贈り、魯にその順序を決めさせたが、魯は(周の爵位の序列に従って)鄭を後回しにした。鄭の忽は自分に功績があるのにと怒った。これが(四年後の)郎の戦いの原因となった。桓公がまだ斉から妻を迎えていなかった頃、斉侯(僖公)は娘の文姜を鄭の太子に嫁がせようとした。太子忽は辞退した。人がそのわけを尋ねると、太子は言った。「人にはそれぞれ釣り合う相手がある。斉は大国で、私の釣り合う相手ではない。『詩経』に『自ら多くの福を求める』とある。福は自分次第であって、大国の後ろ盾が何になろう」。君子は言った。「よく自分のために謀った」。戎の軍を破ったときにも、斉侯はまた娘を嫁がせたいと申し出たが、太子は固く辞退した。人がそのわけを尋ねると、太子は言った。「斉に何の用もなかったときでさえ、私はあえて受けなかった。いま君命によって斉の危急に駆けつけたのに、妻をもらって帰ったなら、軍を使って婚姻を得たことになる。民は私を何と言うだろうか」。そこで父の鄭伯(荘公)の名で断った。秋、(魯で)大規模な閲兵を行った。戦車と馬を点検したのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・權謀齊鄭の太子忽に妻はさんと欲す。太子忽辭す。人其の故を問ふ。太子曰く、「人各〻偶有り。齊は大なり。吾が偶に非ざるなり。詩に云ふ、『自ら多福を求む』と。我に在るのみ」と。後戎齊を伐つ。齊師を鄭に請ふ。鄭の太子忽師を率ゐて齊を救ひ、大いに戎師を敗る。齊又た之に妻はさんと欲す。太子固く辭す。人其の故を問ふ。對へて曰く、「齊に事無きに、吾猶ほ敢へてせず。今君命を以て齊の急を救ひ、室を受けて以て歸らば、人其れ我を以て師婚と爲さんか」と。終に之を辭す。
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史記 鄭世家二十四年、宋の繆公卒し、公子馮鄭に奔る。鄭、周の地を侵し、禾を取る。二十五年、衛の州吁其の君桓公を弑して自ら立ち、宋と鄭を伐つ。馮の故を以てなり。二十七年、始めて周の桓王に朝す。桓王其の禾を取りしを怒り、礼せず。二十九年、荘公、周の礼せざるを怒り、魯と祊・許田を易ふ。三十三年、宋孔父を殺す。三十七年、荘公周に朝せず。周の桓王、陳・蔡・虢・衛を率ゐて鄭を伐つ。荘公、祭仲・高渠弥と兵を発して自ら救ひ、王の師大いに敗る。祝聸、王の臂を射中つ。祝聸之を従はんことを請ふ。鄭伯之を止めて曰く、「長を犯すすら且つ之を難る、況んや敢へて天子を陵がんや」と。乃ち止む。夜、祭仲をして王の疾を問はしむ。三十八年、北戎斉を伐つ。斉、救ひを求めしむ。鄭、太子忽を遣はし兵を将ゐて斉を救はしむ。斉の釐公之に妻はせんと欲す。忽謝して曰く、「我は小国なり、斉の敵に非ざるなり」と。時に祭仲倶にし、勧めて之を取らしめて曰く、「君は内寵多し。太子大援無くんば将に立たざらんとす。三公子は皆君なり」と。所謂三公子とは、太子忽、其の弟突、次弟子亹なり。四十三年、鄭の荘公卒す。初め、祭仲甚だ荘公に寵有り、荘公使ひて卿と為す。公、鄧の女を娶らしむ。太子忽を生む。故に祭仲之を立つ、是を昭公と為す。荘公又宋の雍氏の女を娶り、厲公突を生む。雍氏宋に寵有り。宋の荘公、祭仲の忽を立つるを聞き、乃ち人をして祭仲を誘ひ召して之を執へしめて曰く、「突を立てずんば、将に死せんとす」と。亦突を執へて以て賂を求む。祭仲宋に許し、宋と盟ふ。突を以て帰り、之を立つ。昭公忽、祭仲の宋を以て要せられて其の弟突を立つるを聞き、九月丁亥、忽出でて衛に奔る。己亥、突鄭に至りて立つ、是を厲公と為す。厲公四年、祭仲国政を専らにす。厲公之を患へ、陰かに其の婿雍糾をして祭仲を殺さんと欲せしむ。
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『春秋左氏伝』桓公三年・四年 曲沃、翼侯を獲う三年春、曲沃の武公翼を伐ち、陘庭に次る。韓萬戎に御し、梁弘右と為る。翼侯を汾隰に逐ふ。驂絓りて止まる。夜之を獲、及び欒共叔をも。嬴に會す、昬を齊に成すなり。夏、齊侯・衛侯蒲に胥命す、盟はざるなり。公杞侯に郕に會す、杞成を求むるなり。秋、公子翬齊に如きて女を逆ふ。先君の好を修む。故に「公子」と曰ふ。齊侯姜氏を讙に送る、禮に非ざるなり。凡そ公女敵國に嫁ぐに、姊妹なれば、則ち上卿之を送り、以って先君に禮す。公子なれば、則ち下卿之を送る。大國に於いては、公子と雖も、亦た上卿之を送る。天子に於いては、則ち諸卿皆行き、公自ら送らず。小國に於いては、則ち上大夫之を送る。冬、齊の仲年來聘す、夫人を致すなり。芮伯萬の母芮姜、芮伯の寵人多きを惡む、故に之を逐ふ。出でて魏に居る。四年春、正月、公郎に狩す。書するは、時にして、禮なればなり。夏、周の宰渠伯糾來聘す。父在り、故に名いふ。秋、秦の師芮を侵し、敗る、之を小とすればなり。冬、王の師・秦の師魏を圍み、芮伯を執へて以って歸る。
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『春秋左氏伝』定公六年 人を尤めて之に效ふ六年春、鄭、許を滅ぼす。楚の敗るるに因るなり。二月、公、鄭を侵し、匡を取る。晉の為に鄭の胥靡を伐ちしを討つなり。往くに道を衛に假らず。還るに及びて、陽虎、季・孟をして南門より入り、東門より出でしめ、豚澤に舍る。衛侯怒り、彌子瑕をして之を追はしめんとす。公叔文子老いたり。輦して公に如きて曰く、「人を尤めて之に效ふは、禮に非ざるなり。昭公の難に、君將に文の舒鼎、成の昭兆、定の鞶鑑を以て、苟も以て之を納るべくんば、擇びて一を用ゐんとせり。公子と二三臣の子とは、諸侯苟も之を憂へば、將に以て之が質と為さんとせり。此れ群臣の聞く所なり。今將に小忿を以て舊德を蒙はんとす。乃ち不可なる無からんや。大姒の子、唯だ周公・康叔のみ相睦まじと為す。而るに小人に效ひて以て之を棄つるは、亦た誣ならずや。天、將に陽虎の罪を多くして以て之を斃さんとす。君姑く之を待て。若何」と。乃ち止む。夏、季桓子、晉に如く。鄭の俘を獻ずるなり。陽虎、強ひて孟懿子をして往きて夫人の幣に報いしむ。晉人、兼ねて之を享す。孟孫、房外に立ちて、范獻子に謂ひて曰く、「陽虎若し魯に居る能はずして、肩を晉に息ふ所に、以て中軍の司馬と為さずんば、先君の如き有らん」と。獻子曰く、「寡君に官有り、將に其の人を使はんとす。鞅何をか知らん」と。獻子、簡子に謂ひて曰く、「魯人、陽虎を患ふ。孟孫、其の釁を知り、以て必ず晉に適かんと為す。故に強ひて之が為に請ひて、以て入るることを取るなり」と。
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『春秋左氏伝』僖公七年 知臣は君に若くは莫し七年春、齊人鄭を伐つ。孔叔鄭伯に言ひて曰く、「諺に之れ有りて曰く、『心則ち競はずんば、何ぞ病を憚らん』と。既に彊なる能はず、又弱なる能はず、斃るる所以なり。國危し、請ふ齊に下りて以て國を救はん」と。公曰く、「吾其の由りて來る所を知れり。姑く少しく我を待て」と。對へて曰く、「朝に夕べに及ばず、何を以てか君を待たん」と。夏、鄭申侯を殺して以て齊に說く、且つ陳の轅濤塗の譖を用ゐればなり。初め、申侯は申の出なり、楚の文王に寵有り。文王將に死せんとするとき、之に璧を與へ、行かしめて曰く、「唯だ我女を知る。女は利を專らにして厭かず、予より取り予に求むれども、女を疵瑕とせざりき。後の人は、將に多くを女に求めんとす、女必ず免れじ。我死せば、女必ず速やかに行け。小國に適くこと無かれ、將に女を容れざらんとす」と。既に葬りて、出でて鄭に奔り、又厲公に寵有り。子文其の死を聞くや、曰く、「古人言有りて曰く、『臣を知るは君に若くは莫し』と。改むべからざるのみ」と。秋、甯母に盟ふ、鄭を謀るが故なり。管仲齊侯に言ひて曰く、「臣之を聞く、攜るるを招くには禮を以てし、遠きを懷くるには德を以てす。德禮易はらずんば、人として懷かざるは無し」と。齊侯禮を諸侯に脩め、諸侯の官方物を受く。
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『春秋左氏伝』荘公元年・三年 夫人、斉に孫る元年春、即位を稱せざるは、文姜出づるが故なり。三月、夫人齊に孫る。姜氏と稱せざるは、絕ちて親と爲さざればなり、禮なり。秋、王姬の館を外に築く。外に爲るは、禮なり。二年冬、夫人姜氏齊侯に禚に會す。姦を書すなり。三年春、溺齊の師に會して衛を伐つ。之を疾めばなり。夏五月、桓王を葬る。緩きなり。秋、紀季酅を以て齊に入る。紀是に於てか始めて判る。冬、公滑に次す。將に鄭伯に會して、紀の故を謀らんとす。鄭伯辭するに難を以てす。凡そ師、一宿を舍と爲し、再宿を信と爲し、信を過ぐるを次と爲す。
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