春秋左氏伝 / 桓公三年・四年 曲沃、翼侯を獲う
三年春,曲沃武公伐翼,次于陘庭,韓萬御戎,梁弘為右,逐翼侯于汾隰,驂絓而止。夜獲之,及欒共叔。會于嬴,成昬于齊也。夏,齊侯、衛侯胥命于蒲,不盟也。公會杞侯于郕,杞求成也。秋,公子翬如齊逆女。修先君之好。故曰「公子」。齊侯送姜氏于讙,非禮也。凡公女嫁于敵國,姊妹,則上卿送之,以禮於先君;公子,則下卿送之。於大國,雖公子,亦上卿送之。於天子,則諸卿皆行,公不自送。於小國,則上大夫送之。冬,齊仲年來聘,致夫人也。芮伯萬之母芮姜惡芮伯之多寵人也,故逐之,出居于魏。四年春,正月,公狩于郎。書,時,禮也。夏,周宰渠伯糾來聘。父在,故名。秋,秦師侵芮,敗焉,小之也。冬,王師、秦師圍魏,執芮伯以歸。
新字:三年春,曲沃武公伐翼,次于陘庭,韓万御戎,梁弘為右,逐翼侯于汾隰,驂絓而止。夜獲之,及欒共叔。会于嬴,成昏于斉也。夏,斉侯、衛侯胥命于蒲,不盟也。公会杞侯于郕,杞求成也。秋,公子翬如斉逆女。修先君之好。故曰「公子」。斉侯送姜氏于讙,非礼也。凡公女嫁于敵国,姊妹,則上卿送之,以礼於先君;公子,則下卿送之。於大国,雖公子,亦上卿送之。於天子,則諸卿皆行,公不自送。於小国,則上大夫送之。冬,斉仲年来聘,致夫人也。芮伯万之母芮姜悪芮伯之多寵人也,故逐之,出居于魏。四年春,正月,公狩于郎。書,時,礼也。夏,周宰渠伯糾来聘。父在,故名。秋,秦師侵芮,敗焉,小之也。冬,王師、秦師囲魏,執芮伯以帰。
書き下し
三年春、曲沃の武公翼を伐ち、陘庭に次る。韓萬戎に御し、梁弘右と為る。翼侯を汾隰に逐ふ。驂絓りて止まる。夜之を獲、及び欒共叔をも。嬴に會す、昬を齊に成すなり。夏、齊侯・衛侯蒲に胥命す、盟はざるなり。公杞侯に郕に會す、杞成を求むるなり。秋、公子翬齊に如きて女を逆ふ。先君の好を修む。故に「公子」と曰ふ。齊侯姜氏を讙に送る、禮に非ざるなり。凡そ公女敵國に嫁ぐに、姊妹なれば、則ち上卿之を送り、以って先君に禮す。公子なれば、則ち下卿之を送る。大國に於いては、公子と雖も、亦た上卿之を送る。天子に於いては、則ち諸卿皆行き、公自ら送らず。小國に於いては、則ち上大夫之を送る。冬、齊の仲年來聘す、夫人を致すなり。芮伯萬の母芮姜、芮伯の寵人多きを惡む、故に之を逐ふ。出でて魏に居る。四年春、正月、公郎に狩す。書するは、時にして、禮なればなり。夏、周の宰渠伯糾來聘す。父在り、故に名いふ。秋、秦の師芮を侵し、敗る、之を小とすればなり。冬、王の師・秦の師魏を圍み、芮伯を執へて以って歸る。
現代語訳
桓公三年の春、曲沃の武公(荘伯の子)が翼を攻め、陘庭に陣を敷いた。韓万が武公の戦車の御者を務め、梁弘が車右となった。翼侯(哀侯)を汾水のほとりの低湿地まで追い詰めた。翼侯の車は、外側の副馬が木に引っかかって止まってしまった。夜のうちに翼侯を捕らえ、あわせて欒共叔(欒賓の子)も捕らえた。桓公は斉侯と嬴で会見した。斉との婚約を取り決めたのである。夏、斉侯と衛侯が蒲で「胥命」した。互いに言葉で約束するだけで、犠牲の血をすする盟約はしなかったのである。桓公は杞侯と郕で会見した。杞が和睦を求めたのである。秋、公子翬(羽父)が斉へ行き、桓公の花嫁を迎えた。先君の代からの斉との友好を修めたのである。だから『春秋』は(隠公四年の「翬」とは違って)「公子」と記した。斉侯は娘の姜氏(文姜)を自ら讙まで送ってきた。礼にかなわないことである。およそ君主の娘が同格の国に嫁ぐとき、君主の姉妹であれば上卿が送って、先君への礼を尽くす。君主の娘であれば下卿が送る。大国に嫁ぐ場合は、君主の娘であっても上卿が送る。天子に嫁ぐ場合は、卿がみな随行し、君主自身は送らない。小国に嫁ぐ場合は、上大夫が送る。冬、斉の仲年が魯に聘問に来た。夫人を送り届けた後の挨拶である。芮伯万の母の芮姜は、芮伯が寵愛する者を多く抱えていることを憎み、芮伯を追放した。芮伯は国を出て魏に住んだ。桓公四年の春正月、桓公は郎で狩りをした。『春秋』がこれを記すのは、季節にかない、礼にかなっていたからである。夏、周の宰の渠伯糾が魯に聘問に来た。父がまだ存命であったので、『春秋』は名で記した。秋、秦の軍が芮に侵攻したが、敗れた。芮を小国と侮ったからである。冬、周王の軍と秦の軍が魏を包囲し、芮伯を捕らえて連れ帰った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』隠公八年 先に配して後に祖す八年春、齊侯將に宋・衛を平がんとし、會期有り。宋公幣を以って衛に請ひ、先づ相見えんことを請ふ。衛侯之を許す。故に犬丘に遇ふ。鄭伯泰山の祀を釋きて周公を祀らんことを請ひ、泰山の祊を以って許田に易へんとす。三月、鄭伯宛をして來りて祊を歸らしむ、泰山を祀らざるなり。夏、虢公忌父始めて周に卿士と作る。四月甲辰、鄭の公子忽陳に如きて婦媯を逆ふ。辛亥、媯氏を以って歸る。甲寅、鄭に入る。陳の鍼子女を送る。先づ配して後に祖す。鍼子曰く、「是れ夫婦と為さず。其の祖を誣ふ、禮に非ざるなり。何を以ってか能く育せん」と。齊人卒に宋・衛を鄭に平ぐ。秋、溫に會し、瓦屋に盟ふ、以って東門の役を釋く、禮なり。八月丙戌、鄭伯齊人を以って王に朝す、禮なり。公莒人と浮來に盟ふ、以って紀の好を成すなり。冬、齊侯をして來りて三國を成すを告げしむ。公眾仲をして對へしめて曰く、「君三國の圖を釋きて、以って其の民を鳩む、君の惠なり。寡君命を聞けり。敢へて君の明德を承受せざらんや」と。無駭卒す。羽父謚と族とを請ふ。公族を眾仲に問ふ。眾仲對へて曰く、「天子德を建て、生に因りて以って姓を賜ひ、之に土を胙して之に氏を命ず。諸侯は字を以って謚と為し、因りて以って族と為す。官に世功有れば、則ち官族有り。邑も亦た之の如し」と。公命じて字を以って展氏と為す。
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『長短経』正論班固曰く「人は天地陰陽の気を函み、喜怒哀楽の情有り。天は其の性を稟けて節せず。聖人は能く之が節を為して、絶つ能わざるなり。故に天地に象りて礼楽を制す。神明に通じ、人倫を立て、情性を正し、万事を節する所以なり。人性に男女の情、妬忌の別有り。為に婚姻の礼を制す。交接長幼の序有り。為に郷飲の礼を制す。死を哀しみ遠きを思うの情有り。為に喪祭の礼を制す。尊を尊び上を敬うの心有り。為に朝覲の礼を制す。哀には哭踊の節有り、楽には歌舞の容有り。正しき人は以て其の誠に副うに足り、邪なる人は以て其の失を防ぐに足る。故に婚姻の礼廃るれば、則ち夫婦の道苦しみて、淫僻の罪多く、郷飲の礼廃るれば、則ち長幼の序乱れて、争闘の獄煩わし。喪祭の礼廃るれば、則ち骨肉の恩薄くして、死に背き生を忘るる者衆く、朝聘の礼廃るれば、則ち君臣の位失われて、侵凌の漸起こる。故に孔子曰く『上を安んじ人を治むるは、礼より善きは莫し。風を移し俗を易うるは、楽より善きは莫し。揖譲して天下を治むるとは、礼楽の謂なり』と」と。〉
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『慎思録』巻之五其の性行を審らかに択ばざるべからず。又須らく父家の良賤を選ぶべし。唯其の容貌の美悪を以て取舎を為すべからず。然れども君子の父に於けるや、愛敬兼ね至り、母に比して最も厚き者は、何ぞや。蓋し人の生ずるや、始めを父に資る。是れ稟受の本源たり。母の如きは、養育の功固より多しと雖も、然れども其の本始たりて之を統ぶる者は父なり。是れ猶ほ地育の功厚しと雖も、特に天生の徳大なるがごとし。故に父は天たり、母は地たり。其の尊卑自ら同じからず。此れ父を以て至尊至親と為し、其の尊ぶべきこと天と斉し。故に君子は最も其の父に厚くして、母は其の次なり。
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『玉勝間』十三の巻 臣の王を娶る事記略に、延暦十二年九月丙戌の詔に、見任の大臣、良家の子孫、三世以下を娶るを許す、但し藤原氏は、累代相承けて、摂政絶えず、此を以てこれを論ずれば、等しきに因るべからず、殊に二世以下を娶るを聴すべしと見えたり。そもそも古は、皇女はさらにも申さず、すべて臣の、王の女を娶ることは、ゆるされぬ事にて、さる事かつて無かりしを、継嗣令に、臣五世の王を娶るは聴すとあるは、令の時、始めての御制にや有りけむ。そのかみ万の事、さしも漢風にうつされしかども、これらはさすがに、人の情の安からざる事なれば、延暦の頃になりてすら、なお上の件の如くなりけらし。令のかの同じつづきに、王は親王を娶り、ただ五世の王は、親王を娶るを得ずとも見えて、諸王は、四世までも、皇女をも娶りしを、臣は、そのかみわずかに、五世の女王を娶ることをゆるされしを以て、王と臣と、すじの尊き卑しきけじめ、厳なりしことを知るべし。夫婦のむすびをなすことも、尊き卑しきけじめ、かばかり正しかりしを、そののち何事もみな、漸に漢風にうつりはてて、ついに今の如くには成りぬるなり。世の人ただ、同姓娶らずなど云う、漢風の事をのみ、思い云いて、皇国の古に、かばかり尊き卑しきけじめを分けし事をば、知らざめる故に、今いささかおどろかすなり。
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『玉勝間』十三の巻 臣の王を娶る事かの漢国の王などは、もとよりすじ無き者には有れども、当時の王の女をも、むげにすじ無き男にもあわすなるは、あまりにわきため無く、みだりなる国俗にぞ有りける。
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