史記 / 鄭世家
二十四年,宋繆公卒,公子馮奔鄭。鄭侵周地,取禾。二十五年,衞州吁弒其君桓公自立,與宋伐鄭,以馮故也。二十七年,始朝周桓王。桓王怒其取禾,弗禮也。二十九年,莊公怒周弗禮,與魯易祊、許田。三十三年,宋殺孔父。三十七年,莊公不朝周,周桓王率陳、蔡、虢、衞伐鄭。莊公與祭仲、髙渠彌發兵自救,王師大敗。祝聸射中王臂。祝聸請從之,鄭伯止之,曰:「犯長且難之,況敢陵天子乎?」乃止。夜令祭仲問王疾。三十八年,北戎伐齊,齊使求救,鄭遣太子忽將兵救齊。齊釐公欲妻之,忽謝曰:「我小國,非齊敵也。」時祭仲與倶,勸使取之,曰:「君多内寵,太子無大援將不立,三公子皆君也。」所謂三公子者,太子忽,其弟突,次弟子亹也。四十三年,鄭莊公卒。初,祭仲甚有寵於莊公,莊公使爲卿;公使娶鄧女,生太子忽,故祭仲立之,是爲昭公。莊公又娶宋雍氏女,生厲公突。雍氏有寵於宋。宋莊公聞祭仲之立忽,乃使人誘召祭仲而執之,曰:「不立突,將死。」亦執突以求賂焉。祭仲許宋,與宋盟。以突歸,立之。昭公忽聞祭仲以宋要立其弟突,九月丁亥,忽出奔衞。己亥,突至鄭,立,是爲厲公。厲公四年,祭仲專國政。厲公患之,陰使其婿雍糾欲殺祭仲。
新字:二十四年,宋繆公卒,公子馮奔鄭。鄭侵周地,取禾。二十五年,衛州吁弒其君桓公自立,与宋伐鄭,以馮故也。二十七年,始朝周桓王。桓王怒其取禾,弗礼也。二十九年,荘公怒周弗礼,与魯易祊、許田。三十三年,宋殺孔父。三十七年,荘公不朝周,周桓王率陳、蔡、虢、衛伐鄭。荘公与祭仲、高渠弥発兵自救,王師大敗。祝聸射中王臂。祝聸請従之,鄭伯止之,曰:「犯長且難之,況敢陵天子乎?」乃止。夜令祭仲問王疾。三十八年,北戎伐斉,斉使求救,鄭遣太子忽将兵救斉。斉釐公欲妻之,忽謝曰:「我小国,非斉敵也。」時祭仲与倶,勧使取之,曰:「君多内寵,太子無大援将不立,三公子皆君也。」所謂三公子者,太子忽,其弟突,次弟子亹也。四十三年,鄭荘公卒。初,祭仲甚有寵於荘公,荘公使為卿;公使娶鄧女,生太子忽,故祭仲立之,是為昭公。荘公又娶宋雍氏女,生厲公突。雍氏有寵於宋。宋荘公聞祭仲之立忽,乃使人誘召祭仲而執之,曰:「不立突,将死。」亦執突以求賂焉。祭仲許宋,与宋盟。以突帰,立之。昭公忽聞祭仲以宋要立其弟突,九月丁亥,忽出奔衛。己亥,突至鄭,立,是為厲公。厲公四年,祭仲専国政。厲公患之,陰使其婿雍糾欲殺祭仲。
書き下し
二十四年、宋の繆公卒し、公子馮鄭に奔る。鄭、周の地を侵し、禾を取る。二十五年、衛の州吁其の君桓公を弑して自ら立ち、宋と鄭を伐つ。馮の故を以てなり。二十七年、始めて周の桓王に朝す。桓王其の禾を取りしを怒り、礼せず。二十九年、荘公、周の礼せざるを怒り、魯と祊・許田を易ふ。三十三年、宋孔父を殺す。三十七年、荘公周に朝せず。周の桓王、陳・蔡・虢・衛を率ゐて鄭を伐つ。荘公、祭仲・高渠弥と兵を発して自ら救ひ、王の師大いに敗る。祝聸、王の臂を射中つ。祝聸之を従はんことを請ふ。鄭伯之を止めて曰く、「長を犯すすら且つ之を難る、況んや敢へて天子を陵がんや」と。乃ち止む。夜、祭仲をして王の疾を問はしむ。三十八年、北戎斉を伐つ。斉、救ひを求めしむ。鄭、太子忽を遣はし兵を将ゐて斉を救はしむ。斉の釐公之に妻はせんと欲す。忽謝して曰く、「我は小国なり、斉の敵に非ざるなり」と。時に祭仲倶にし、勧めて之を取らしめて曰く、「君は内寵多し。太子大援無くんば将に立たざらんとす。三公子は皆君なり」と。所謂三公子とは、太子忽、其の弟突、次弟子亹なり。四十三年、鄭の荘公卒す。初め、祭仲甚だ荘公に寵有り、荘公使ひて卿と為す。公、鄧の女を娶らしむ。太子忽を生む。故に祭仲之を立つ、是を昭公と為す。荘公又宋の雍氏の女を娶り、厲公突を生む。雍氏宋に寵有り。宋の荘公、祭仲の忽を立つるを聞き、乃ち人をして祭仲を誘ひ召して之を執へしめて曰く、「突を立てずんば、将に死せんとす」と。亦突を執へて以て賂を求む。祭仲宋に許し、宋と盟ふ。突を以て帰り、之を立つ。昭公忽、祭仲の宋を以て要せられて其の弟突を立つるを聞き、九月丁亥、忽出でて衛に奔る。己亥、突鄭に至りて立つ、是を厲公と為す。厲公四年、祭仲国政を専らにす。厲公之を患へ、陰かに其の婿雍糾をして祭仲を殺さんと欲せしむ。
現代語訳
二十四年、宋の繆公(ぼくこう)が死に、公子馮(ひょう)が鄭に亡命してきた。鄭は周の領地を侵して稲を刈り取った。二十五年、衛の州吁(しゅうく)が主君の桓公を殺して自ら立ち、宋と共に鄭を討った。公子馮を匿ったためである。二十七年、荘公は初めて周の桓王に朝見した。桓王は鄭が稲を刈り取ったことを怒り、礼をもって遇さなかった。二十九年、荘公は周が礼を尽くさなかったことを怒り、魯と祊(ほう)・許田の地を交換した。三十三年、宋が孔父(こうほ)を殺した。三十七年、荘公は周に朝見しなかった。周の桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。荘公は祭仲・高渠弥(こうきょび)と兵を出して自ら防ぎ、王の軍は大敗した。祝聸(しゅくたん)が王の臂を射当てた。祝聸は王を追撃させてほしいと願ったが、鄭伯(荘公)はそれを止めて言った。「目上の人を犯すことすらはばかられるのに、まして天子を侮ることなどできようか」。そこで追撃をやめた。夜、祭仲を遣わして王の傷を見舞わせた。三十八年、北戎が斉を討ち、斉は救援を求めてきた。鄭は太子忽(こつ)に兵を率いさせて斉を救わせた。斉の釐公(きこう)は忽に娘を嫁がせようとした。忽は辞退して言った。「わが国は小国で、斉とは釣り合わない」。このとき祭仲が同行しており、娶るよう勧めて言った。「わが君には寵愛する側室が多い。太子に大きな後ろ盾がなければ、君位に立てないかもしれない。三人の公子はみな君主の候補なのだ」。三人の公子とは、太子忽、その弟の突(とつ)、その下の弟の子亹(しび)である。四十三年、鄭の荘公が死んだ。これより前、祭仲は荘公に大いに寵愛され、荘公は彼を卿(大臣)にした。荘公は祭仲の仲立ちで鄧の娘を娶り、太子忽が生まれた。だから祭仲は忽を立てた。これが昭公である。荘公はまた宋の雍(よう)氏の娘を娶り、厲公突が生まれた。雍氏は宋で寵愛されていた。宋の荘公は祭仲が忽を立てたと聞き、人を遣わして祭仲をおびき寄せて捕らえ、「突を立てなければ、殺す」と言った。また突も捕らえて賄賂を求めた。祭仲は宋の要求を受け入れ、宋と盟約を結び、突を連れ帰って君に立てた。昭公忽は、祭仲が宋に脅されて弟の突を立てたと聞き、九月丁亥の日に国を出て衛に亡命した。己亥の日、突が鄭に着いて即位した。これが厲公である。厲公の四年、祭仲が国政を独占した。厲公はこれを憂え、ひそかに祭仲の娘婿の雍糾(ようきゅう)に祭仲を殺させようとした。
解説
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史記 鄭世家糾の妻は祭仲の女なり。之を知り、其の母に謂ひて曰く、「父と夫と孰れか親しき」と。母曰く、「父は一のみ、人は尽く夫なり」と。女乃ち祭仲に告ぐ。祭仲反りて雍糾を殺し、之を市に戮す。厲公、祭仲を奈何ともする無く、糾を怒りて曰く、「謀婦人に及ぶ、死は固より宜なるかな」と。夏、厲公出でて辺邑の櫟に居る。祭仲、昭公忽を迎へ、六月乙亥、復た鄭に入りて位に即く。秋、鄭の厲公突、櫟人に因りて其の大夫単伯を殺し、遂に之に居る。諸侯、厲公の出奔せるを聞き、鄭を伐つも、克たずして去る。宋頗る厲公に兵を予へ、自ら櫟に守る。鄭故を以て亦櫟を伐たず。昭公二年、昭公の太子為りし時より、父荘公、高渠弥を以て卿と為さんと欲す。太子忽之を悪む。荘公聴かず、卒に渠弥を用ひて卿と為す。昭公位に即くに及び、其の己を殺さんことを懼る。冬十月辛卯、渠弥、昭公と出でて猟し、昭公を野に射殺す。祭仲と渠弥と敢へて厲公を入れず、乃ち更に昭公の弟子亹を立てて君と為す、是を子亹と為す、謚号無し。子亹元年七月、斉の襄公諸侯に首止に会す。鄭の子亹往きて会す。高渠弥相として従ふ。祭仲疾と称して行かず。然る所以の者は、子亹、斉の襄公の公子為りし時より、嘗て会して闘ひ、相仇たり。諸侯に会するに及び、祭仲、子亹に行く無からんことを請ふ。子亹曰く、「斉は彊にして、厲公櫟に居る。即し往かずんば、是れ諸侯を率ゐて我を伐ち、厲公を内れん。我往くに如かず。往くとも何ぞ遽かに必ずしも辱められん。且つ又何ぞ是に至らん」と。卒に行く。是に於て祭仲、斉の并せて之を殺さんことを恐る。故に疾と称す。子亹至り、斉侯に謝せず。斉侯怒り、遂に甲を伏せて子亹を殺す。高渠弥亡げ帰り、帰りて祭仲と謀り、子亹の弟公子嬰を陳より召して之を立つ、是を鄭子と為す。是の歳、斉の襄公、彭生をして魯の桓公を酔はせ拉殺せしむ。
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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史記 宋微子世家十九年、宣公病み、其の弟和に譲りて曰く、「父死して子継ぎ、兄死して弟及ぶは、天下の通義なり。我其れ和を立てん」と。和も亦た三たび譲りて之を受く。宣公卒し、弟の和立つ。是を穆公と為す。穆公の九年、病み、大司馬孔父を召して謂ひて曰く、「先君宣公太子与夷を捨てて我を立つ。我敢て忘れず。我死せば、必ず与夷を立てよ」と。孔父曰く、「群臣皆公子馮を立てんことを願ふ」と。穆公曰く、「馮を立つること毋かれ。吾以て宣公に負くべからず」と。是に於て穆公馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、穆公卒し、兄宣公の子与夷立つ。是を殤公と為す。君子之を聞きて曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふべし。其の弟を立てて以て義を成し、然も卒に其の子復た之を享く。殤公の元年、衛の公子州吁其の君完を弑して自立し、諸侯を得んと欲し、宋に告げしめて曰く、「馮鄭に在り、必ず乱を為さん。我と与に之を伐つべし」と。宋之を許し、与に鄭を伐ち、東門に至りて還る。二年、鄭宋を伐ち、以て東門の役に報ゆ。其の後諸侯数々来たりて侵伐す。九年、大司馬孔父嘉の妻好し。出でて、道に太宰華督に遇ふ。督説び、目して之を観る。督孔父の妻を利とし、乃ち人をして国中に宣言せしめて曰く、「殤公即位して十年のみにして、十一たび戦ふ。民苦しみて堪へず。皆孔父之を為す。我且に孔父を殺して以て民を寧んぜんとす」と。是の歳、魯其の君隠公を弑す。十年、華督孔父を攻め殺し、其の妻を取る。殤公怒る。遂に殤公を弑して、穆公の子馮を鄭に迎へて之を立つ。是を荘公と為す。荘公の元年、華督相と為る。九年、鄭の祭仲を執へ、要して突を立てて鄭君と為さしむ。祭仲許し、竟に突を立つ。十九年、荘公卒し、子の湣公捷立つ。湣公の七年、斉の桓公即位す。九年、宋に水あり。魯臧文仲をして往きて水を弔はしむ。
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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史記 鄭世家鄭の桓公友は、周の厲王の少子にして宣王の庶弟なり。宣王立ちて二十二年、友初めて鄭に封ぜらる。封ぜられて三十三歳、百姓皆便とし之を愛す。幽王以て司徒と為す。周民を和集し、周民皆説び、河雒の閒、人便とし之を思ふ。司徒と為りて一歳、幽王褒后の故を以て、王室の治多く邪にして、諸侯或いは之に畔く。是に於て桓公、太史伯に問ひて曰く、「王室故多し、予安くにか死を逃れん」と。太史伯対へて曰く、「独り雒の東土、河済の南居るべし」と。公曰く、「何を以てか」と。対へて曰く、「地は虢・鄶に近し。虢・鄶の君は貪にして利を好み、百姓附かず。今公は司徒為り、民皆公を愛す。公誠に之に居らんことを請はば、虢・鄶の君、公の方に事を用ふるを見て、軽々しく公に地を分たん。公誠に之に居らば、虢・鄶の民は皆公の民なり」と。公曰く、「吾南のかた江上に之かんと欲す、何如」と。対へて曰く、「昔祝融は高辛氏の火正と為り、其の功大なり。而して其の周に於ては未だ興る者有らず。楚は其の後なり。周衰へば、楚必ず興らん。興らば、鄭の利に非ざるなり」と。公曰く、「吾西方に居らんと欲す、何如」と。対へて曰く、「其の民貪にして利を好む。久しく居り難し」と。公曰く、「周衰へば、何の国か興る者ぞ」と。対へて曰く、「斉・秦・晋・楚か。夫れ斉は姜姓、伯夷の後なり。伯夷は堯を佐けて礼を典る。秦は嬴姓、伯翳の後なり。伯翳は舜を佐けて百物を懐柔す。楚の先に及ぶまで、皆嘗て天下に功有り。而して周の武王紂に克ちて後、成王叔虞を唐に封ず。其の地阻険なり。此の有徳を以て周の衰ふると并び、亦必ず興らん」と。桓公曰く、「善し」と。是に於て卒に王に言ひ、東のかた其の民を雒の東に徙す。而して虢・鄶果たして十邑を献じ、竟に之を国とす。二歳にして、犬戎幽王を驪山の下に殺し、并せて桓公を殺す。鄭人共に其の子掘突を立つ、是を武公と為す。武公十年、申侯の女を娶りて夫人と為す、武姜と曰ふ。
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史記 鄭世家太子寤生を生む。之を生むこと難く、生まるるに及びて、夫人愛せず。後に少子叔段を生む。段の生まるること易く、夫人之を愛す。二十七年、武公疾む。夫人公に請ひ、段を立てて太子と為さんと欲す。公聴かず。是の歳、武公卒し、寤生立つ、是を荘公と為す。荘公元年、弟段を京に封じ、太叔と号す。祭仲曰く、「京は国より大なり。庶を封ずる所以に非ざるなり」と。荘公曰く、「武姜之を欲す。我敢へて奪はざるなり」と。段京に至り、甲兵を繕治し、其の母武姜と謀りて鄭を襲はんとす。二十二年、段果たして鄭を襲ひ、武姜内応を為す。荘公兵を発して段を伐つ。段走る。京を伐つ。京人段に畔く。段出でて鄢に走る。鄢潰え、段出でて共に奔る。
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