春秋左氏伝 / 隠公九年 三覆を設けて戎を破る
九年春,王三月癸酉,大雨霖以震,書始也。庚辰,大雨雪,亦如之。書,時失也。凡雨,自三日以往為霖。平地尺為大雪。夏,城郎,書,不時也。宋公不王。鄭伯為王左卿士,以王命討之,伐宋。宋以入郛之役怨公,不告命。公怒,絕宋使。秋,鄭人以王命來告伐宋。冬,公會齊侯于防,謀伐宋也。北戎侵鄭,鄭伯禦之。患戎師,曰:「彼徒我車,懼其侵軼我也。」公子突曰:「使勇而無剛者,嘗寇而速去之。君為三覆以待之。戎輕而不整,貪而無親,勝不相讓,敗不相救。先者見獲必務進,進而遇覆必速奔,後者不救,則無繼矣。乃可以逞。」從之。戎人之前遇覆者奔,祝聃逐之。衷戎師,前後擊之,盡殪。戎師大奔。十一月甲寅,鄭人大敗戎師。
新字:九年春,王三月癸酉,大雨霖以震,書始也。庚辰,大雨雪,亦如之。書,時失也。凡雨,自三日以往為霖。平地尺為大雪。夏,城郎,書,不時也。宋公不王。鄭伯為王左卿士,以王命討之,伐宋。宋以入郛之役怨公,不告命。公怒,絶宋使。秋,鄭人以王命来告伐宋。冬,公会斉侯于防,謀伐宋也。北戎侵鄭,鄭伯禦之。患戎師,曰:「彼徒我車,懼其侵軼我也。」公子突曰:「使勇而無剛者,嘗寇而速去之。君為三覆以待之。戎軽而不整,貪而無親,勝不相譲,敗不相救。先者見獲必務進,進而遇覆必速奔,後者不救,則無継矣。乃可以逞。」従之。戎人之前遇覆者奔,祝聃逐之。衷戎師,前後撃之,尽殪。戎師大奔。十一月甲寅,鄭人大敗戎師。
書き下し
九年春、王の三月癸酉、大いに雨霖して以って震す、始めを書するなり。庚辰、大いに雪を雨らす、亦た之の如し。書するは、時失へばなり。凡そ雨、三日より以往を霖と為す。平地尺なるを大雪と為す。夏、郎に城く。書するは、時ならざればなり。宋公王せず。鄭伯王の左卿士為り、王命を以って之を討ち、宋を伐つ。宋入郛の役を以って公を怨み、命を告げず。公怒り、宋の使を絕つ。秋、鄭人王命を以って來りて宋を伐つを告ぐ。冬、公齊侯と防に會す、宋を伐つを謀るなり。北戎鄭を侵す、鄭伯之を禦ぐ。戎の師を患へて曰く、「彼は徒、我は車、其の我を侵軼せんことを懼る」と。公子突曰く、「勇にして剛無き者をして、寇を嘗みて速やかに之を去らしめよ。君三覆を為して以って之を待て。戎は輕にして整はず、貪にして親無し。勝てば相讓らず、敗るれば相救はず。先なる者獲を見れば必ず進むを務め、進みて覆に遇へば必ず速やかに奔らん。後なる者救はずんば、則ち繼ぐ無からん。乃ち以って逞しくす可し」と。之に從ふ。戎人の前なる覆に遇ふ者奔る。祝聃之を逐ふ。戎の師を衷にして、前後より之を擊ち、盡く殪す。戎の師大いに奔る。十一月甲寅、鄭人大いに戎の師を敗る。
現代語訳
隠公九年の春、周王の暦の三月癸酉の日、大雨が降り続いて雷が鳴った。『春秋』はその始まりの日を記した。庚辰の日、大雪が降った。これも同様に記した。記したのは、季節外れの異常だったからである。およそ雨は三日以上降り続くものを霖といい、平地に一尺積もるものを大雪という。夏、郎に城壁を築いた。記したのは、時期にかなっていなかったからである。宋公が周王に朝見しなかった。鄭伯は王の左卿士であったので、王命によってこれを討ち、宋を攻めた。宋は、鄭が外城に入ったとき魯が救援しなかったことを怨んで、魯に通告しなかった。隠公は怒り、宋との使者の往来を断った。秋、鄭の人が王命によって宋を討つことを魯に告げてきた。冬、隠公は斉侯と防で会見した。宋を討つことを謀るためである。北戎が鄭に侵入し、鄭伯はこれを防いだ。鄭伯は戎の軍を案じて言った。「彼らは歩兵で我らは戦車だ。回り込まれて突破されるのが心配だ」。公子突(のちの鄭の厲公)が言った。「勇敢だが粘りのない者に敵を試しに攻めさせ、すぐに退かせましょう。君は三か所に伏兵を置いて待ち構えてください。戎は身軽ですが統制がとれておらず、貪欲で互いに親しみ合うことがありません。勝てば手柄を譲り合わず、負ければ助け合いません。先頭の者は獲物を見れば必ず先を争って進み、進んで伏兵に遭えば必ず一目散に逃げるでしょう。後ろの者が救わなければ、後続は途切れます。そうすれば思いどおりに勝てます」。鄭伯はこれに従った。戎の先頭で伏兵に遭った者たちは逃げ出し、祝聃がこれを追撃した。戎の軍を中ほどで分断し、前後から挟み撃ちにして、ことごとく討ち取った。戎の軍は総崩れになって逃げた。十一月甲寅の日、鄭の人は戎の軍を大いに破った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 呂不韋列伝深く語る。呂不韋曰く、「秦王老いたり。安国君太子と為るを得たり。竊かに聞く、安国君は華陽夫人を愛幸す。華陽夫人子無し。能く適嗣を立つる者は独り華陽夫人のみと。今、子の兄弟二十余人、子又中に居り、甚だしくは幸せられず、久しく諸侯に質たり。即し大王薨じ、安国君立ちて王と為らば、則ち子は長子及び諸子の旦暮前に在る者と太子を争ふを得る幾毋し」と。子楚曰く、「然り。之を為すこと柰何」と。呂不韋曰く、「子は貧しく、此に客たり。以て親に奉献し及び賓客を結ぶ有るに非ざるなり。不韋貧しと雖も、請ふ千金を以て子の為に西游し、安国君及び華陽夫人に事へ、子を立てて適嗣と為さん」と。子楚乃ち頓首して曰く、「必ず君の策の如くならば、請ふ秦国を分かちて君と之を共にせん」と。
-
史記 呉王濞列伝呉の少将桓将軍王に説きて曰く、「呉は歩兵多し。歩兵は険に利あり。漢は車騎多し。車騎は平地に利あり。願はくは大王過ぐる所の城邑下らざれば、直ちに棄て去り、疾く西して雒陽の武庫に拠り、敖倉の粟を食み、山河の険に阻りて以て諸侯に令せよ。関に入る毋しと雖も、天下固より已に定まらん。即し大王徐行して、城邑を留め下さば、漢軍の車騎至りて、梁楚の郊に馳せ入らば、事敗れん」と。呉王諸老将に問ふ。老将曰く、「此れ少年の鋒を推すの計は可なるのみ。安くんぞ大慮を知らんや」と。是に於て王桓将軍の計を用ひず。呉王専ら其の兵を并せ将ゐ、未だ淮を度らざるに、諸賓客皆将・校尉・候・
-
孫子・始計篇孫子曰く、兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。
-
『韓非子』說林上二十二將に之を敗らん欲せば、必ず姑く之を輔けよ。將に之を取らんと欲せば、必ず姑く之に予えよ。
-
史記 黥布列伝山東は漢の有に非ざるなり。中計に出でば、勝敗の数未だ知るべからざるなり。下計に出でば、陛下枕を安んじて臥せん」と。上曰く、「何をか上計と謂ふ」と。令尹対へて曰く、「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、斉を并せ魯を取り、檄を燕・趙に伝へ、固く其の所を守らば、山東は漢の有に非ざるなり」と。「何をか中計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、韓を并せ魏を取り、敖庾の粟に拠り、成皋の口を塞がば、勝敗の数未だ知るべからざるなり」と。「何をか下計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた下蔡を取り、重を越に帰し、身は長沙に帰せば、陛下枕を安んじて臥し、漢事無からん」と。上曰く、「是の計将に安くにか出でんとす」と。令尹対へて曰く、「下計に出でん」と。上曰く、「何の謂ぞ上中計を廃して下計に出づるとは」と。令尹曰く、「布は故の麗山の徒なり。自ら万乗の主に致る。此れ皆身の為にして、後に百姓万世の為に慮ることを顧みざる者なり。故に下計に出づと曰ふ」と。上曰く、「善し」と。薛公に千戸を封ず。乃ち皇子長を立てて淮南王と為す。上遂に兵を発し、自ら将として東のかた布を撃つ。布の初めて反するや、其の将に謂ひて曰く、「上老いたり、兵を厭ふ。必ず来たる能はず。諸将をして使はしめん。諸将は独り淮陰・彭越を患ふるのみ。今皆已に死せり。余は畏るるに足らざるなり」と。故に遂に反す。果して薛公の之を籌るが如く、
-
尚書・仲虺之誥弱きを兼(あわ)せ昧(くら)きを攻め、乱るるを取り亡ぶるを侮(あなど)り、亡ぶるを推(お)して存するを固くすれば、邦乃(すなわ)ち其れ昌(さか)んなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る