春秋左氏伝 / 隠公七年 歃すること忘るるが如し
七年春,滕侯卒。不書名,未同盟也。凡諸侯同盟,於是稱名,故薨則赴以名,告終稱嗣也,以繼好息民,謂之禮經。夏,城中丘,書,不時也。齊侯使夷仲年來聘,結艾之盟也。秋,宋及鄭平。七月庚申,盟于宿。公伐邾,為宋討也。初,戎朝于周,發幣于公卿,凡伯弗賓。冬,王使凡伯來聘。還,戎伐之于楚丘以歸。陳及鄭平。十二月,陳五父如鄭涖盟。壬申,及鄭伯盟,歃如忘。洩伯曰:「五父必不免,不賴盟矣。」鄭良佐如陳涖盟,辛巳,及陳侯盟,亦知陳之將亂也。鄭公子忽在王所,故陳侯請妻之。鄭伯許之,乃成昬。
新字:七年春,滕侯卒。不書名,未同盟也。凡諸侯同盟,於是称名,故薨則赴以名,告終称嗣也,以継好息民,謂之礼経。夏,城中丘,書,不時也。斉侯使夷仲年来聘,結艾之盟也。秋,宋及鄭平。七月庚申,盟于宿。公伐邾,為宋討也。初,戎朝于周,発幣于公卿,凡伯弗賓。冬,王使凡伯来聘。還,戎伐之于楚丘以帰。陳及鄭平。十二月,陳五父如鄭涖盟。壬申,及鄭伯盟,歃如忘。洩伯曰:「五父必不免,不頼盟矣。」鄭良佐如陳涖盟,辛巳,及陳侯盟,亦知陳之将乱也。鄭公子忽在王所,故陳侯請妻之。鄭伯許之,乃成昏。
書き下し
七年春、滕侯卒す。名を書せざるは、未だ同盟せざればなり。凡そ諸侯同盟すれば、是に於いて名を稱す。故に薨ずれば則ち赴ぐるに名を以ってし、終はりを告げ嗣を稱するなり。以って好を繼ぎ民を息む、之を禮經と謂ふ。夏、中丘に城く。書するは、時ならざればなり。齊侯夷仲年をして來聘せしむ、艾の盟を結ぶなり。秋、宋鄭と平ぐ。七月庚申、宿に盟ふ。公邾を伐つ、宋の為に討つなり。初め、戎周に朝し、幣を公卿に發す。凡伯賓せず。冬、王凡伯をして來聘せしむ。還るに、戎之を楚丘に伐ちて以って歸る。陳鄭と平ぐ。十二月、陳の五父鄭に如きて盟に涖む。壬申、鄭伯と盟ふ。歃すること忘るるが如し。洩伯曰く、「五父必ず免れざらん。盟に賴らず」と。鄭の良佐陳に如きて盟に涖む。辛巳、陳侯と盟ふ。亦た陳の將に亂れんとするを知るなり。鄭の公子忽王の所に在り、故に陳侯之に妻せんことを請ふ。鄭伯之を許す。乃ち昬を成す。
現代語訳
隠公七年の春、滕侯が亡くなった。『春秋』がその名を記さないのは、魯とまだ同盟していなかったからである。およそ諸侯が同盟すれば、その盟約の中で互いに名を名乗る。だから亡くなれば名を記して訃報を送り、君の死を告げるとともに後継ぎの名を伝える。こうして友好を引き継ぎ、民を安んじる。これを礼の大原則という。夏、中丘に城壁を築いた。『春秋』がこれを記すのは、農繁期で時期にかなっていなかったからである。斉侯が夷仲年を魯に聘問させた。前年の艾の盟約を固めるためである。秋、宋が鄭と和睦した。七月庚申の日、宿で盟約した。隠公は邾を攻めた。宋のために討ったのである。以前、戎が周に朝見したとき、公卿たちに贈り物を配った。凡伯はこれに客としての礼で応じなかった。冬、周王は凡伯を魯に聘問させた。その帰り道、戎は楚丘で凡伯を襲い、捕らえて連れ去った。陳が鄭と和睦した。十二月、陳の五父(公子佗)が鄭へ行き、盟約に臨んだ。壬申の日、鄭伯と盟約したが、血をすする誓いの儀式の最中に、心ここにあらずといった様子であった。洩伯(鄭の洩駕)は言った。「五父はきっと災いを免れまい。盟約を頼りにしていないのだから」。鄭の良佐が陳へ行って盟約に臨み、辛巳の日に陳侯と盟約した。彼もまた、陳がやがて乱れることを見て取った。鄭の公子忽は周王のもとにいた(人質として)。そこで陳侯は公子忽に娘を嫁がせたいと申し入れた。鄭伯はこれを許し、婚約が成った。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』備城門變を為し、垣を築き土を聚むること常に非ざる者、若しくは彭に水の濁りて常に非ざる者有らば、此れ土を穴つなり。急ぎ城内を壍し、内も亦た土もて之を直し、井を城内に穿つ。五步に一井、城足に傅け、地を髙くすること丈五尺。地、泉を得れば三尺にして止む。
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