春秋左氏伝 / 隠公元年 孝子匱しからず
君子曰:「潁考叔,純孝也,愛其母,施及莊公。《詩》曰:『孝子不匱,永錫爾類。』其是之謂乎!」秋,七月,天王使宰咺來歸惠公、仲子之賵。緩,且子氏未薨,故名。天子七月而葬,同軌畢至;諸侯五月,同盟至;大夫三月,同位至;士踰月,外姻至。贈死不及尸,弔生不及哀,豫凶事,非禮也。八月,紀人伐夷。夷不告,故不書。有蜚。不為災,亦不書。惠公之季年,敗宋師于黃。公立,而求成焉。九月,及宋人盟于宿,始通也。冬,十月,庚申,改葬惠公。公弗臨,故不書。惠公之薨也,有宋師,太子少,葬故有闕,是以改葬。衛侯來會葬,不見公,亦不書。鄭共叔之亂,公孫滑出奔衛。衛人為之伐鄭,取廩延。鄭人以王師、虢師伐衛南鄙。請師於邾,邾子使私於公子豫。豫請往,公弗許,遂行。及邾人、鄭人盟于翼。不書,非公命也。新作南門。不書,亦非公命也。十二月,祭伯來,非王命也。眾父卒。公不與小斂,故不書日。
新字:君子曰:「潁考叔,純孝也,愛其母,施及荘公。《詩》曰:『孝子不匱,永錫爾類。』其是之謂乎!」秋,七月,天王使宰咺来帰恵公、仲子之賵。緩,且子氏未薨,故名。天子七月而葬,同軌畢至;諸侯五月,同盟至;大夫三月,同位至;士踰月,外姻至。贈死不及尸,弔生不及哀,予凶事,非礼也。八月,紀人伐夷。夷不告,故不書。有蜚。不為災,亦不書。恵公之季年,敗宋師于黄。公立,而求成焉。九月,及宋人盟于宿,始通也。冬,十月,庚申,改葬恵公。公弗臨,故不書。恵公之薨也,有宋師,太子少,葬故有闕,是以改葬。衛侯来会葬,不見公,亦不書。鄭共叔之乱,公孫滑出奔衛。衛人為之伐鄭,取廩延。鄭人以王師、虢師伐衛南鄙。請師於邾,邾子使私於公子予。予請往,公弗許,遂行。及邾人、鄭人盟于翼。不書,非公命也。新作南門。不書,亦非公命也。十二月,祭伯来,非王命也。衆父卒。公不与小斂,故不書日。
書き下し
君子曰く、「潁考叔は純孝なり。其の母を愛して、施いて莊公に及ぶ。詩に曰く、『孝子匱しからず、永く爾の類に錫ふ』と。其れ是を之れ謂ふか」と。秋、七月、天王宰咺をして來りて惠公・仲子の賵を歸らしむ。緩し、且つ子氏未だ薨ぜず、故に名いふ。天子は七月にして葬り、同軌畢く至る。諸侯は五月、同盟至る。大夫は三月、同位至る。士は月を踰え、外姻至る。死に贈りて尸に及ばず、生を弔ひて哀に及ばず、凶事を豫めするは、禮に非ざるなり。八月、紀人夷を伐つ。夷告げず、故に書せず。蜚有り。災を為さず、亦た書せず。惠公の季年、宋の師を黃に敗る。公立ちて、成を求む。九月、宋人と宿に盟ふ、始めて通ずるなり。冬、十月、庚申、惠公を改葬す。公臨まず、故に書せず。惠公の薨ずるや、宋の師有り、太子少し、葬に故に闕有り、是を以って改葬す。衛侯來りて葬に會す、公に見えず、亦た書せず。鄭の共叔の亂に、公孫滑出でて衛に奔る。衛人之が為に鄭を伐ち、廩延を取る。鄭人王の師・虢の師を以って衛の南鄙を伐つ。師を邾に請ふ。邾子私かに公子豫に使ひす。豫往かんと請ふ、公許さず、遂に行く。邾人・鄭人と翼に盟ふ。書せざるは、公の命に非ざればなり。新たに南門を作る。書せざるは、亦た公の命に非ざればなり。十二月、祭伯來る、王命に非ざるなり。眾父卒す。公小斂に與らず、故に日を書せず。
現代語訳
君子は言った。「潁考叔(鄭の潁谷の役人)は純粋な孝子である。自分の母を愛し、その心を押し広げて荘公にまで及ぼした。『詩経』に『孝子の孝は尽きることがなく、永くその仲間にまで分け与えられる』とある。まさにこのことを言うのであろう」。秋七月、周の天子は宰の咺を遣わし、恵公と仲子のための葬儀の贈り物(賵)を届けさせた。時期が遅れており、しかも仲子はまだ存命であったので、『春秋』は使者を「宰咺」と名で記して非難している。天子は死後七か月で葬り、同じ車軌を用いる天下の諸侯がみな会葬する。諸侯は五か月で葬り、同盟の国が会葬する。大夫は三か月で葬り、同じ位の者が会葬する。士は一か月を越えて葬り、姻戚が会葬する。死者への贈り物が埋葬に間に合わず、遺族への弔問が服喪の悲しみの時期に間に合わず、まだ起きていない凶事にあらかじめ備えるのは、いずれも礼にかなわない。八月、紀の人が夷を攻めた。夷が魯に通告しなかったので、『春秋』は記さない。蜚(害虫)が発生した。しかし災害にはならなかったので、これも記さない。恵公の晩年、魯は宋の軍を黄で破った。隠公が立つと、宋との講和を求めた。九月、宋の人と宿で盟約した。はじめて国交を開いたのである。冬十月庚申の日、恵公を改葬した。隠公が喪主として臨まなかったので、『春秋』は記さない。恵公が亡くなったとき、宋との戦があり、太子(桓公)も幼かったので、葬儀に欠けるところがあった。そのため改葬したのである。衛侯が会葬に来たが、隠公に会わなかったので、これも記さない。鄭の共叔段の乱のとき、段の子の公孫滑は衛に亡命した。衛の人は彼のために鄭を攻め、廩延を奪った。鄭の人は周王の軍と虢の軍を率いて衛の南の国境を攻めた。鄭は邾に援軍を求め、邾の君はひそかに魯の公子豫に使者を送った。豫は出陣を願い出たが、隠公は許さなかった。それでも豫は出かけ、邾の人・鄭の人と翼で盟約した。『春秋』が記さないのは、隠公の命令ではなかったからである。新たに南門を造った。これを記さないのも、隠公の命令ではなかったからである。十二月、祭伯が魯に来たが、周王の命によるものではなかった。衆父(公子益師)が亡くなった。隠公が遺体を衣で包む小斂の儀に立ち会わなかったので、『春秋』は死去の日付を記さない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・為政篇孟懿子孝を問う。子曰く、「違(たが)うこと無かれ。」樊遅御(ぎょ)す。子之に告げて曰く、「孟孫我に孝を問う。我対えて曰く、違(たが)うこと無かれと。」樊遅が曰く、「何の謂(いい)ぞや。」子曰く、「生きては之に事(つか)うるに礼を以てし、死しては之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす。」
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孟子・盡心章句下曾晳羊棗を嗜む、而して曾子羊棗を食らふに忍びず。公孫丑問ひて曰く、「膾炙と羊棗と孰れか美き。」孟子曰く、「膾炙なるかな。」公孫丑曰く、「然らば則ち曾子何為れぞ膾炙を食らひて羊棗を食らはざる。」曰く、「膾炙は同じき所なり、羊棗は独りする所なり。名を諱みて姓を諱まず、姓は同じき所なり、名は独りする所なり。」
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論語・為政篇子夏孝を問う。子曰く、「色難し。事有れば弟子其の労に服し、酒食有れば先生に饌(まかな)う。曾て是を以て孝と為さんや。」
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