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尚武論 / 上古の封建の沿革と屯倉の備え

乃命爲國造者凡八。爲縣王者凡三。當是之時。王畿獨有中州之地。國造縣主頗受封於其中。其餘諸國。唯與之正始耳。 崇神之世。始封皇子。鎭撫東方。後定男女調役。皇子分封。邦國貢賦。皆自此始。景行丕承其緒。以揚前烈。四征弗庭。大拓十字。而 帝八十餘子。受封者七十七人。更封宗室。爲東山十五道都督。犬牙相臨。統制天下。於是國亦有別。(所謂別王是也) 成務嗣德。始分天下。國郡縣邑。各置官長。其爲國造者凡九十有四。 餘則不可詳考。蓋猶周有五等國。上足以奉貢職。下足以供祭祀。以藩輔京師。初 垂仁始置屯田。稱爲帝皇之田。猶周人所謂天子之田也。其官曰屯田司。屯田屯倉。卽始于此。 景行乃令諸國與田部屯倉。蓋古者耕田之業。猶不足食。凶年荒歲。最多艱阨。於是敕令諸國。制其土。處其民。務稼穡。廣畜積。以備災害。其制猶後之義倉也。延及 安閑。制置屯倉於西南諸國。凡十三所。乃令有司。掌其田租事。自是而後經理寬閑之野。墾闢膏腴之田。分命有司。以掌其政。史不絶書。所謂兼有封建郡縣之制是也。 景行皇子倭武薨。因定式部。曰欲錄功名也。名代入部。實始于此。厥後 仁德爲皇后太子及諸皇子。定名代部。皇后湯沐邑。太子諸王食封。亦皆自此始也。 清寧無子。置白髮部舍人膳部靭負等於諸國。 武烈 安閑。皆循其故事。謂之子代入部。蓋以其無子故置之。因謂子代。皇后無子。亦置焉。名代子代。殊號而同實耳。置之之制。其詳未聞。亦猶漢時陵邑。徒天下民與田宅。守陵也。至於 孝德創制立法。國郡縣邑廢其君長。制其祿俸。

新字:乃命為国造者凡八。為県王者凡三。当是之時。王畿独有中州之地。国造県主頗受封於其中。其余諸国。唯与之正始耳。 崇神之世。始封皇子。鎮撫東方。後定男女調役。皇子分封。邦国貢賦。皆自此始。景行丕承其緒。以揚前烈。四征弗庭。大拓十字。而 帝八十余子。受封者七十七人。更封宗室。為東山十五道都督。犬牙相臨。統制天下。於是国亦有別。(所謂別王是也) 成務嗣徳。始分天下。国郡県邑。各置官長。其為国造者凡九十有四。 余則不可詳考。蓋猶周有五等国。上足以奉貢職。下足以供祭祀。以藩輔京師。初 垂仁始置屯田。称為帝皇之田。猶周人所謂天子之田也。其官曰屯田司。屯田屯倉。即始于此。 景行乃令諸国与田部屯倉。蓋古者耕田之業。猶不足食。凶年荒歳。最多艱阨。於是勅令諸国。制其土。処其民。務稼穡。広畜積。以備災害。其制猶後之義倉也。延及 安閑。制置屯倉於西南諸国。凡十三所。乃令有司。掌其田租事。自是而後経理寛閑之野。墾闢膏腴之田。分命有司。以掌其政。史不絶書。所謂兼有封建郡県之制是也。 景行皇子倭武薨。因定式部。曰欲録功名也。名代入部。実始于此。厥後 仁徳為皇后太子及諸皇子。定名代部。皇后湯沐邑。太子諸王食封。亦皆自此始也。 清寧無子。置白髪部舎人膳部靭負等於諸国。 武烈 安閑。皆循其故事。謂之子代入部。蓋以其無子故置之。因謂子代。皇后無子。亦置焉。名代子代。殊号而同実耳。置之之制。其詳未聞。亦猶漢時陵邑。徒天下民与田宅。守陵也。至於 孝徳創制立法。国郡県邑廃其君長。制其禄俸。

書き下し

乃ち命じて国造と為す者凡そ八、県王と為す者凡そ三。是の時に当たり、王畿は独り中州の地を有つのみ。国造・県主は頗る其の中に封を受く。其の余の諸国は、唯だ之に正始を与ふるのみ。崇神の世、始めて皇子を封じ、東方を鎮撫せしむ。後、男女の調役を定む。皇子の分封、邦国の貢賦、皆此より始まる。景行丕いに其の緒を承け、以て前烈を揚ぐ。弗庭を四征し、大いに十字を拓く。而して帝の八十余子、封を受くる者七十七人。更に宗室を封じ、東山十五道の都督と為し、犬牙相臨み、天下を統制す。是に於いて国にも亦別有り(所謂別王是れなり)。成務、徳を嗣ぎ、始めて天下を分かち、国郡県邑に各々官長を置く。其の国造と為る者は凡そ九十有四。餘は則ち詳らかに考ふべからず。蓋し猶ほ周に五等の国有るがごとし。上は以て貢職を奉ずるに足り、下は以て祭祀に供するに足る。以て京師を藩輔す。初め垂仁、始めて屯田を置き、称して帝皇の田と為す。猶ほ周人の所謂天子の田のごとし。其の官を屯田司と曰ふ。屯田・屯倉、即ち此に始まる。景行乃ち諸国に田部・屯倉を与へしむ。蓋し古は耕田の業、猶ほ食に足らず、凶年荒歳、最も艱阨多し。是に於いて諸国に勅令して、其の土を制し、其の民を処き、稼穡を務め、畜積を広くし、以て災害に備へしむ。其の制は猶ほ後の義倉のごとし。安閑に延及び、屯倉を西南の諸国に制置すること凡そ十三所。乃ち有司に令して其の田租の事を掌らしむ。是より後、寛閑の野を経理し、膏腴の田を墾闢し、有司に分命して以て其の政を掌らしむること、史に絶えず書す。所謂封建郡県を兼有すとは是れなり。景行の皇子倭武薨ず。因りて式部を定む。曰く、功名を録さんと欲すればなり、と。名代入部、実に此に始まる。厥の後、仁徳、皇后・太子及び諸皇子の為に名代部を定め、皇后の湯沐邑、太子諸王の食封も、亦皆此より始まるなり。清寧、子無く、白髪部・舎人・膳部・靭負等を諸国に置く。武烈・安閑、皆其の故事に循ふ。之を子代入部と謂ふ。蓋し其の子無きを以て之を置く。因りて子代と謂ふ。皇后子無くも亦之を置く。名代・子代、号を殊にして実を同じうするのみ。之を置くの制、其の詳しきは未だ聞かず。亦猶ほ漢の時の陵邑、天下の民と田宅とを徙して陵を守らしむるがごときなり。孝徳の創制立法に至り、国郡県邑に其の君長を廃し、其の禄俸を制す。

現代語訳

そこで命じて国造とした者はおよそ八人、県王とした者はおよそ三人でした。このとき、王の直轄地は中州の地だけで、国造・県主はその中でかなり封を受けました。そのほかの諸国には、ただ正朔を与えるだけでした。崇神天皇の世に、初めて皇子を封じて東方を鎮め治めさせました。のちに男女の調役を定めました。皇子の分封、諸国の貢ぎ物と賦課は、すべてここから始まります。景行天皇はその事業を大いに受け継ぎ、先人の功績を広めました。服従しない者を四方に征し、大いに領土を拓きました。そして天皇の八十余人の子のうち、封を受けた者は七十七人でした。さらに皇族を封じ、東山十五道の都督として、犬の牙のように入り組んで隣り合わせ、天下を統制しました。こうして国にも区別が生まれました(いわゆる別王がこれです)。成務天皇は徳を継ぎ、はじめて天下を分け、国・郡・県・邑にそれぞれ官長を置きました。その国造となった者はおよそ九十四人です。そのほかは詳しく考えることができません。思うに、周に五等の国があったのと同じでしょう。上は貢ぎ物を奉るのに足り、下は祭祀を供えるのに足り、都を守り輔けました。初め垂仁天皇が屯田を置き、これを帝皇の田と称しました。周の人が言う天子の田のようなものです。その官を屯田司と言います。屯田・屯倉は、ここから始まりました。景行天皇はそこで諸国に田部・屯倉を与えさせました。思うに、古は耕作の業でもなお食に足りず、凶年や荒年にはとりわけ困窮が多かったのです。そこで諸国に勅令して、その土地を治め、その民を配置し、稼穡に励み、蓄えを広げて、災害に備えさせました。その制度は後の義倉のようなものです。安閑天皇の時代に及び、屯倉を西南の諸国に設置すること、およそ十三か所。有司に命じて田租のことを掌らせました。これ以後、ひろびろとした野を整え、肥えた田を開墾し、有司に分担を命じて政を掌らせることが、史書に絶えず記されています。いわゆる封建と郡県を併せ持ったというのはこのことです。景行天皇の皇子、倭武が亡くなりました。そこで式部を定めました。功名を記録しようとしたからだと言います。名代入部は、実にここから始まります。その後、仁徳天皇が皇后・太子および諸皇子のために名代部を定め、皇后の湯沐邑、太子・諸王の食封も、やはりみなここから始まりました。清寧天皇は子がなく、白髪部・舎人・膳部・靭負などを諸国に置きました。武烈天皇・安閑天皇もみなその先例に従いました。これを子代入部と言います。思うに、子がないために置いたので、子代と言います。皇后に子がない場合もこれを置きました。名代・子代は、名称は違っても実質は同じです。これを置く制度の詳細はまだ聞いたことがありません。漢の時代の陵邑のように、天下の民と田宅を移して陵を守らせたのと同じでしょう。孝徳天皇の創制立法に至り、国・郡・県・邑の君長を廃止し、その禄俸を定めました。

解説

上古に皇子や功臣を各地に封じ、国造・県主を置き、屯田・屯倉で災害に備えたという制度の沿革をたどる一節です。国造などの数や由来は、白石の記述を引いた歴史的な説明として読むものです。現代の組織に置き換えると、権限を担当ごとに分担して責任者を置くことと、凶作に備えた蓄えを制度として用意しておくことの二点が参考になります。管理職も、役割分担を明確にし、不測の事態に備えた余力を日ごろから確保しておくことが大切です。

この章句が説くこと

『尚武論』中村中倧国造屯倉封建郡県

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