春秋左氏伝 / 成公九年 備へ無きかな
冬。十一月。楚子重自陳伐莒。圍渠丘。渠丘城惡。眾潰。奔莒。戊申。楚入渠丘。莒人囚楚公子平。楚人曰。勿殺。吾歸而俘。莒人殺之。楚師圍莒。莒城亦惡。庚申。莒潰。楚遂入鄆。莒無備故也。君子曰。恃陋而不備。罪之大者也。備豫不虞。善之大者也。莒恃其陋。而不脩城郭。浹辰之間。而楚克其三都。無備也夫。詩曰。雖有絲麻。無棄菅蒯。雖有姬姜。無棄蕉萃。凡百君子。莫不代匱。言備之不可以已也。秦人白狄伐晉。諸侯貳故也。鄭人圍許。示晉不急君也。是則公孫申謀之曰。我出師以圍許。為將改立君者。而紓晉使。晉必歸君。城中城。書時也。十二月。楚子使公子辰如晉。報鍾儀之使。請修好結成。
新字:冬。十一月。楚子重自陳伐莒。囲渠丘。渠丘城悪。衆潰。奔莒。戊申。楚入渠丘。莒人囚楚公子平。楚人曰。勿殺。吾帰而俘。莒人殺之。楚師囲莒。莒城亦悪。庚申。莒潰。楚遂入鄆。莒無備故也。君子曰。恃陋而不備。罪之大者也。備予不虞。善之大者也。莒恃其陋。而不脩城郭。浹辰之間。而楚克其三都。無備也夫。詩曰。雖有糸麻。無棄菅蒯。雖有姫姜。無棄蕉萃。凡百君子。莫不代匱。言備之不可以已也。秦人白狄伐晋。諸侯貳故也。鄭人囲許。示晋不急君也。是則公孫申謀之曰。我出師以囲許。為将改立君者。而紓晋使。晋必帰君。城中城。書時也。十二月。楚子使公子辰如晋。報鍾儀之使。請修好結成。
書き下し
冬十一月、楚の子重陳より莒を伐ち、渠丘を圍む。渠丘城惡し。眾潰えて、莒に奔る。戊申、楚渠丘に入る。莒人楚の公子平を囚ふ。楚人曰く、「殺す勿かれ。吾而の俘を歸さん」と。莒人之を殺す。楚の師莒を圍む。莒の城も亦た惡し。庚申、莒潰ゆ。楚遂に鄆に入る。莒備へ無きが故なり。君子曰く、「陋を恃みて備へざるは、罪の大なる者なり。不虞に備豫するは、善の大なる者なり。莒其の陋を恃みて、城郭を脩めず。浹辰の間にして、楚其の三都に克つ。備へ無きかな。詩に曰く、『絲麻有りと雖も、菅蒯を棄つる無かれ。姬姜有りと雖も、蕉萃を棄つる無かれ。凡百の君子、匱しきに代はらざる莫し』と。備への以て已むべからざるを言ふなり」と。秦人・白狄晉を伐つ。諸侯貳するが故なり。鄭人許を圍む。晉に君を急がざるを示すなり。是れ則ち公孫申之を謀りて曰く、「我師を出だして以て許を圍み、將に君を改め立てんとする者の為にして、而して晉の使を紓べば、晉必ず君を歸さん」と。中城に城く。時を書するなり。十二月、楚子公子辰をして晉に如かしむ。鍾儀の使に報い、好を修め成を結ばんことを請ふ。
現代語訳
冬十一月、楚の子重は陳から転じて莒を伐ち、渠丘を包囲した。渠丘の城壁は傷んでいたので、人々は潰走して莒の都に逃げた。戊申の日、楚は渠丘に入った。莒の人々は楚の公子平を捕らえた。楚の人々は言った。「殺すな。こちらもおまえたちの捕虜を返そう」。莒の人々は公子平を殺した。楚の軍は莒の都を包囲した。莒の城壁もまた傷んでいた。庚申の日、莒は潰走し、楚はそのまま鄆に入った。莒に備えがなかったからである。君子は言った。「辺鄙であることを頼みにして備えないのは、罪の中でも大きなものである。思いがけない事態に前もって備えるのは、善の中でも大きなものである。莒は辺鄙であることを頼んで城郭を修理せず、わずか十二日の間に、楚にその三つの都邑を攻め落とされた。備えがなかったからではないか。詩に『絹や麻があっても、菅や蒯(粗末な草)を捨ててはならない。姫姓や姜姓の美しい妻があっても、やつれた女を捨ててはならない。君子たちよ、欠けたときに代わりとならないものはないのだ』とある。これは備えを怠ってはならないことを言っているのである」。秦の人々と白狄が晋を伐った。諸侯が晋に二心を抱いていたからである。鄭の人々が許を包囲した。晋に対して、鄭が捕らわれた君の帰国を急いでいないことを示すためである。これは公孫申がはかったことで、公孫申はこう言った。「我々が軍を出して許を包囲し、あたかも君を替えて新しく立てようとしているかのように見せ、晋への使者を遅らせれば、晋は必ず君を帰すだろう」。魯は中城に城壁を築いた。『春秋』はそれが時節にかなっていたことを記したのである。十二月、楚子(共王)は公子辰を晋に遣わした。鍾儀を帰した使いへの答礼であり、友好を修め講和を結ぶことを求めた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』七患故に食に備粟無ければ、以て凶饑を待つ可からず。庫に備兵無ければ、義有りと雖も、無義を征する能わず。城郭、備え全からざれば、以て自ら守る可からず。心に備慮無ければ、以て卒に應ずる可からず。是の故に慶忌は之を去るの心無くんば、輕々しく出づる能わず。夫れ桀に湯を待つの備無し、故に放たる。紂に武王を待つの備無し、故に殺さる。桀紂は貴きこと天子と為り、富は天下を有つ。然れども皆な百里の君に滅亡せらるるは、何ぞや。富貴有りて備えを為さざればなり。故に備えなる者は、國の重んずる所なり。
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説苑・建本豊牆磽下は未だ必ずしも崩れざるも、流行潦至れば、壊るること必ず先んず。樹の本浅く、根垓深からざるは、未だ必ずしも橛れざるも、飄風起こり暴雨至れば、抜けること必ず先んず。君子是の国に居りて、仁義を崇めず賢臣を尊ばざるも、未だ必ずしも亡びざるも、然れども一旦非常の変有らば、車馳せ人走り、指して禍至れば、乃ち始めて喉を干し唇を燋がし、天を仰ぎて歎じ、庶幾わくは天其れ之を救わんと、亦難からずや。孔子曰わく、「其の前を慎まずして其の後を悔ゆれば、悔ゆると雖も及ぶ無し」と。詩に曰わく、「其れ啜りて泣く、何ぞ嗟くも及ばん」と。本を先に正さずして末に憂いを成すを言うなり。
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『春秋左氏伝』昭公十八年 小国、守りを忘るれば危うし七月、鄭の子產火の故の為に、大いに社を為(つく)り、四方に祓禳して、火災を振除す。禮なり。乃ち兵を簡(えら)びて大いに蒐す。將に蒐の為に除(はら)はんとす。子大叔の廟は道の南に在り、其の寢は道の北に在り。其の庭小なり。期を過ぐること三日なり。除徒をして道の南、廟の北に陳せしめて曰く、「子產女(なんぢ)を過ぎて、速やかに除けと命ぜば、乃ち而(なんぢ)が鄉(む)かふ所に毀て」と。子產朝す。過ぎて之を怒る。除く者南に毀つ。子產衝に及び、從者をして之を止めしめて曰く、「北方を毀て」と。火の作るや、子產兵を授けて陴に登らしむ。子大叔曰く、「晉乃ち討ずること無からんや」と。子產曰く、「吾之を聞く、小國守を忘るれば則ち危うし、と。況んや災有るをや。國の小とす可からざるは、備へ有るが故なり」と。既にして晉の邊吏鄭を讓(せ)めて曰く、「鄭國災有り。晉君・大夫敢へて寧居せず、卜筮走望して、牲玉を愛しまず。鄭の災有るは、寡君の憂ひなり。今執事撊然として兵を授けて陴に登らしむ。將に誰を以て罪せんとする」と。
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