紫灘遺稿抄録 / 心得の条々・資質があっても学問が要る例
是もまた頼にたらず、小松內府重盛公のごとき、いと善き人なりけるが、其暴惡の父を練め、 天子をなくさめ奉り、一時の飢をしづめ玉ひし事などは、誰もえ及ぶ事にあらぬが、世をうらめしくおもひて、熊野に參りて、命をちゞめ玉へと祈り、宋の育王山に後世の爲とて、金を贈られし事などは、いかなる心ぞ、あはれ學問せさせられたらば、かゝるいやしき事はし玉はじ、鎌倉右大將なども、又なき明將にて、一度かまくらに入て、再たび出ずして諸將を駕御し、天下の廣きを手のうちにあつかひける、其才度量、古の人にも、をさ〱おとらぬ人なりしが、南都の大佛を再建せしに、宋國より陳和卿と申ものを招て建させ、落成の時はじめて、東よりのぼり來て、序に 朝廷を拜し、南都にて和卿に對面せんと請はれしに、和卿が、軍して人多く殺したる人に對面せんは罪ふかしといひ、逢ざりければ、强て逢てんともいはず、さめ〱となかれしとか、學問したる人ならば、我は大將軍に任じたるもの也、朝敵を討て殺すは我任なり、禮も義もしらで左樣の無禮の詞をいふべき事やあると、引出して典刑を正さるべきに、婦女子の樣に、後世の說に迷てなかれしなどは、天稟よき人に學問の力を添たらば、南山の竹に鐵を加へたるものにて、うへもなき事なり、
新字:是もまた頼にたらず、小松内府重盛公のごとき、いと善き人なりけるが、其暴悪の父を練め、 天子をなくさめ奉り、一時の飢をしづめ玉ひし事などは、誰もえ及ぶ事にあらぬが、世をうらめしくおもひて、熊野に参りて、命をちゞめ玉へと祈り、宋の育王山に後世の為とて、金を贈られし事などは、いかなる心ぞ、あはれ学問せさせられたらば、かゝるいやしき事はし玉はじ、鎌倉右大将なども、又なき明将にて、一度かまくらに入て、再たび出ずして諸将を駕御し、天下の広きを手のうちにあつかひける、其才度量、古の人にも、をさ〱おとらぬ人なりしが、南都の大仏を再建せしに、宋国より陳和卿と申ものを招て建させ、落成の時はじめて、東よりのぼり来て、序に 朝廷を拝し、南都にて和卿に対面せんと請はれしに、和卿が、軍して人多く殺したる人に対面せんは罪ふかしといひ、逢ざりければ、強て逢てんともいはず、さめ〱となかれしとか、学問したる人ならば、我は大将軍に任じたるもの也、朝敵を討て殺すは我任なり、礼も義もしらで左様の無礼の詞をいふべき事やあると、引出して典刑を正さるべきに、婦女子の様に、後世の説に迷てなかれしなどは、天稟よき人に学問の力を添たらば、南山の竹に鉄を加へたるものにて、うへもなき事なり、
書き下し
是もまた頼にたらず、小松內府重盛公のごとき、いと善き人なりけるが、其暴惡の父を練め、 天子をなくさめ奉り、一時の飢をしづめ玉ひし事などは、誰もえ及ぶ事にあらぬが、世をうらめしくおもひて、熊野に參りて、命をちゞめ玉へと祈り、宋の育王山に後世の爲とて、金を贈られし事などは、いかなる心ぞ、あはれ學問せさせられたらば、かゝるいやしき事はし玉はじ、鎌倉右大將なども、又なき明將にて、一度かまくらに入て、再たび出ずして諸將を駕御し、天下の廣きを手のうちにあつかひける、其才度量、古の人にも、をさ〱おとらぬ人なりしが、南都の大佛を再建せしに、宋國より陳和卿と申ものを招て建させ、落成の時はじめて、東よりのぼり來て、序に 朝廷を拜し、南都にて和卿に對面せんと請はれしに、和卿が、軍して人多く殺したる人に對面せんは罪ふかしといひ、逢ざりければ、强て逢てんともいはず、さめ〱となかれしとか、學問したる人ならば、我は大將軍に任じたるもの也、朝敵を討て殺すは我任なり、禮も義もしらで左樣の無禮の詞をいふべき事やあると、引出して典刑を正さるべきに、婦女子の樣に、後世の說に迷てなかれしなどは、天稟よき人に學問の力を添たらば、南山の竹に鐵を加へたるものにて、うへもなき事なり、
現代語訳
資質が善いことも、また当てにはなりません。小松内府重盛公のような、たいそう善い人が、その暴悪な父(平清盛)を諫め、天子をお慰めし、一時の飢えを鎮められたことなどは、誰にもできないことですが、世をうらめしく思って熊野に参り、命を縮めてくださいと祈り、宋の育王山に後世のためにと金を贈られたことなどは、どういう心でしょうか。ああ、学問をなさっていたなら、このような卑しいことはなさらなかったでしょう。鎌倉右大将(源頼朝)なども、またとない明将で、一度鎌倉に入ったら再び出ずに諸将を御し、広い天下を手の内に治めた、その才と度量は古の人にもほとんど劣らない人でしたが、南都の大仏を再建するとき、宋国から陳和卿という者を招いて建てさせ、落成のとき初めて東から上って来て、ついでに朝廷を拝し、南都で和卿に対面したいと請われたところ、和卿が「戦をして人を多く殺した人に会うのは罪深い」と言って会わなかったので、無理に会おうとも言わず、さめざめと泣かれたということです。学問をした人ならば、「私は大将軍に任じられた者である。朝敵を討って殺すのは私の任務だ。礼も義も知らずにそのような無礼な言葉を言うことがあるか」と引き出して処罰を正されるべきなのに、女性や子供のように後世(来世)の説に迷って泣かれたことなどは、生まれつきの善い人に学問の力を添えたなら、南山の竹に鉄(の鏃)を加えたようなもので、これ以上のことはない、ということです。
解説
この章句が説くこと
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『学則』答屈景山書不佞其の是くの若きを懲り、凡そ師友の素有るに非ずして来たりて相問難する者に値ふ毎に、一切対を置かず。是れ不佞の常なり。不佞往歳蘐園随筆を作る。其の時、識見未だ定まらず、争心未だ消えず。然れども随筆の作は、自ら書して以て自ら翫び、聊か以て間を消すのみにして、初めより以て人に示すに非ざるなり。独り奈んせん、誤りて剞劂の手に堕ち、遂に諸を海内に公にす。海内の諸君子、因りて不佞を弁を好む者と謂ふ。不佞の心に非ざるなり。今来喩を観るに、亦た対を置かざるの例に在り。然りと雖も、足下既に争心無きを以て告げられ、而して君家の先生は乃ち不佞が髫年の時より私心に郷往する所なれば、則ち何ぞ必ずしも恝然たらんや。亦た唯人心の面の如き、不佞豈に能く諸を足下に喩さんや。但だ不佞の李王を取る所以の故を言ひて以て来意に酬いん。其の取舍の如きは、乃ち足下に在り。唯足下之を択べ。
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