新書 / 立後義
古之聖帝將立世子,則帝自朝服升自阼階上,西鄉於妃。妃抱世子自房出,東鄉。太史奉書西上堂,當兩階之間,北面立,曰世子名曰某者參。帝執禮稱辭,命世子曰度大祖大宗與社稷於子者參。其命也,妃曰不敢者再;於三命,曰謹受命,拜而退。太史以告太祝,太祝以告太祖太宗與社稷。太史出,以告太宰,太宰以告州伯,州伯命藏之州府。凡諸貴已下至於百姓男女,無敢與世子同名者,以此防民百姓猶有爭為君者。
新字:古之聖帝将立世子,則帝自朝服升自阼階上,西郷於妃。妃抱世子自房出,東郷。太史奉書西上堂,当両階之間,北面立,曰世子名曰某者参。帝執礼称辞,命世子曰度大祖大宗与社稷於子者参。其命也,妃曰不敢者再;於三命,曰謹受命,拝而退。太史以告太祝,太祝以告太祖太宗与社稷。太史出,以告太宰,太宰以告州伯,州伯命蔵之州府。凡諸貴已下至於百姓男女,無敢与世子同名者,以此防民百姓猶有争為君者。
書き下し
古の聖帝将に世子を立てんとするや、則ち帝自ら朝服して阼階より升り、西に鄉いて妃に於いてす。妃世子を抱きて房より出で、東に鄉う。太史書を奉じて西のかた堂に上り、両階の間に当たりて、北面して立ち、曰く、世子の名は某と曰う者参ると。帝礼を執りて辞を称し、世子に命じて曰く、大祖大宗と社稷とを子に度する者参ると。其の命ずるや、妃は不敢と曰うこと再びす。三たび命ずるに於いて、謹んで命を受くと曰い、拝して退く。太史以て太祝に告げ、太祝以て太祖太宗と社稷とに告ぐ。太史出でて、以て太宰に告げ、太宰以て州伯に告げ、州伯命じて之を州府に蔵せしむ。凡そ諸貴已下百姓の男女に至るまで、敢えて世子と名を同じくする者無し。此を以て民百姓の猶お君と為るを争う者有るを防ぐ。
現代語訳
昔の聖帝が世子を立てようとするときは、帝みずから朝服を着けて東側の階段から上り、西に向かって妃に向き合います。妃は世子を抱いて部屋から出て、東に向かいます。太史は文書を捧げて西から堂に上り、二つの階段の間に当たる所に北向きに立ち、「世子の名は何某と申します」と言います。帝は礼を取って言葉をととのえ、世子に命じて言います。「大祖、大宗と社稷とを、子にゆだねる」。その命を、妃は「恐れ多いことです」と二度言います。三度目の命で、「謹んで命を受けます」と言い、拝して退きます。太史はこれを太祝に告げ、太祝は太祖、太宗と社稷に告げます。太史は出て、これを太宰に告げ、太宰は州伯に告げ、州伯は命じてこれを州府に蔵めさせます。諸貴から以下、百姓の男女に至るまで、あえて世子と名を同じくする者はいません。こうして、民や百姓がなお君になることを争うことを防ぎます。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』昭公七年 其の父薪を析く晉侯間有り。子產に莒の二方鼎を賜ふ。子產豐施の為に州田を韓宣子に歸して曰く、「日(さき)に君夫の公孫段を以て、能く其の事に任ふと為して、之に州田を賜ふ。今祿無くして早世し、久しく君の德を享くるを獲ず。其の子敢へて有たず、敢へて以て君に聞せず、私かに諸を子に致す」と。宣子辭す。子產曰く、「古人言有りて曰く、『其の父薪を析くも、其の子負荷する克はず』と。施將に其の先人の祿に任ふる能はざるを懼る。其れ況んや能く大國の賜に任へんや。縱ひ吾子政を為して可なりとも、後の人若し屬(たまたま)疆埸の言有らば、敝邑戾を獲て、豐氏其の大討を受けん。吾子州を取らば、是れ敝邑を戾より免れしめて、豐氏を建置するなり。敢へて以て請ふと為す」と。宣子之を受け、以て晉侯に告ぐ。晉侯以て宣子に與ふ。宣子初言の為に、之を有つを病み、以て原縣を樂大心に易ふ。
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