史記 / 蕭相国世家
何頓首曰:「帝得之矣!臣死不恨矣!」何置田宅必居窮處,為家不治垣屋。曰:「後世賢,師吾儉;不賢,毋為勢家所奪。」孝惠二年,相國何卒,諡為文終侯。後嗣以罪失侯者四世,絕,天子輒複求何後,封續酇侯,功臣莫得比焉。
新字:何頓首曰:「帝得之矣!臣死不恨矣!」何置田宅必居窮処,為家不治垣屋。曰:「後世賢,師吾倹;不賢,毋為勢家所奪。」孝恵二年,相国何卒,諡為文終侯。後嗣以罪失侯者四世,絶,天子輒複求何後,封続酇侯,功臣莫得比焉。
書き下し
何頓首して曰く、「帝之を得たり。臣死すとも恨みず」と。何田宅を置くに必ず窮処に居り、家を為るに垣屋を治めず。曰く、「後世賢ならば、吾が倹を師とせよ。賢ならずんば、勢家の奪ふ所と為ること毋からん」と。孝恵二年、相国何卒し、謚して文終侯と為す。後嗣罪を以て侯を失ふ者四世、絶ゆ、天子輒ち複た何の後を求め、封じて酇侯を続がしむ、功臣之に比するを得る莫し。
現代語訳
蕭何は額を地につけて言った。「陛下はふさわしい人を得られた。私は死んでも心残りはない」。蕭何は田地や邸宅を求めるときは、必ず辺鄙な場所に置き、家を建てても塀や建物を立派にしなかった。そして言った。「子孫が賢ければ、私の倹約を手本とするだろう。賢くなくても、権勢のある家に奪われることはないだろう」。孝恵帝の二年、相国蕭何は亡くなり、文終侯と諡された。その後、跡継ぎが罪によって侯の位を失うことが四代あって家は絶えたが、天子はそのたびに蕭何の子孫を探し出して酇侯を継がせた。功臣の中でこれに並ぶ者はいなかった。
解説
蕭何世家の結びです。孝恵帝に後継を問われた蕭何は、自分からは名を挙げず「臣を知るは主に如くは莫し」と答えました。そして恵帝が、蕭何と不仲で知られた曹参の名を挙げると、「帝はふさわしい人を得られた。死んでも恨みはない」と応じます。個人的な確執より国家の人事を優先した姿勢は、名宰相の器を示すものです。また蕭何は土地や屋敷を必ず辺鄙な場所に求め、塀も飾らなかったといいます。「子孫が賢ければ倹約を学び、愚かでも権勢家に奪われずに済む」。自分の死後まで見通した資産の持ち方です。実際、蕭何の家は四度断絶しましたが、そのたびに天子が子孫を探して再興させました。私情を挟まない後継者選びと、目立たない資産の残し方。事業承継を考える経営者に深く響く段です。
関連する章句
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史記 蕭相国世家客有りて相国に説きて曰く、「君族を滅ぼすこと久しからず。君初め関中に入り、百姓の心を得ること十餘年、皆君に附く。上の数しば君を問ふ所以の者は、君の関中を傾動するを畏るればなり。今君胡ぞ多く田地を買ひ、賤しく貰貸して以て自ら汙さざる。上の心乃ち安からん」と。是に於て相国其の計に従ふ、上乃ち大いに説ぶ。
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史記 蕭相国世家太史公曰く、「蕭相国何秦の時に於て刀筆の吏為り、錄錄として未だ奇節有らず。漢興るに及び、日月の末光に依り、何謹みて管籥を守り、民の秦法に疾むに因り、流れに順ひて之と更始す。淮陰・黥布等皆誅滅を以てするも、而して何の勳爛たり。位群臣に冠たり、声後世に施く」と。
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史記 蕭相国世家蕭相国何は、沛の豊の人なり。文無害なるを以て沛の主吏掾と為る。高祖布衣為りし時、何数々吏事を以て高祖を護る。高祖亭長と為るや、常に之を左右す。高祖吏を以て咸陽に繇するに、吏皆銭三を送奉す、何独り五を以てす。秦の御史の郡を監する者与に事に従ひ、常に之を辨ず。何乃ち泗水の卒史の事を給し、第一なり。秦の御史入りて言ひて何を徴せんと欲す、何固く請ひ、行くこと毋きを得たり。高祖起ちて沛公と為るに及び、何常に丞と為りて事を督す。
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史記 曹相国世家然れども吾が若に告ぐと言ふこと無かれ」と。窋既に洗沐して帰り、窋侍し、自ら其の所に従ひて参を諫む。参怒りて、窋を笞うつこと二百、曰く、「趣やかに入りて侍せよ、天下の事は若の当に言ふべき所に非ざるなり」と。朝の時に至り、恵帝参を譲めて曰く、「窋と胡ぞ治むるや。乃者我使はして君を諫めしめしなり」と。参冠を免ぎて謝して曰く、「陛下自ら察するに聖武孰れか高帝に与ける」と。上曰く、「朕乃ち安んぞ敢へて先帝を望まんや」と。曰く、「陛下臣が能を観るに孰れか蕭何に与けて賢なる」と。上曰く、「君は及ばざるに似たり」と。参曰く、「陛下の言是なり。且つ高帝と蕭何と天下を定め、法令既に明らかなり、今陛下垂拱し、参等職を守り、遵ひて失ふこと勿くんば、亦た可ならずや」と。恵帝曰く、「善し。君休め」と。参漢の相国と為り、出入すること三年。卒し、懿侯と謚す。子窋代はりて侯たり。百姓之を歌ひて曰く、「蕭何法を為り、顜として画一の若し。曹参之に代はり、守りて失ふこと勿し。其の清浄を載せ、民以て寧一なり」と。平陽侯窋は、高后の時に御史大夫と為る。孝文帝立ち、免ぜられて侯と為る。立ちて二十九年にして卒し、謚して静侯と為す。子奇代はりて侯たり、立ちて七年にして卒し、謚して簡侯と為す。子時代はりて侯たり。時は平陽公主に尚し、子襄を生む。時癘を病み、国に帰る。立ちて二十三年にして卒し、夷侯と謚す。子襄代はりて侯たり。襄は衛長公主に尚し、子宗を生む。立ちて十六年にして卒し、謚して共侯と為す。子宗代はりて侯たり。征和二年中、宗太子に坐して死し、国除かる。太史公曰く、曹相国参の攻城野戦の功の能く多きこと此の若き所以の者は、淮陰侯と倶にするを以てなり。信已に滅ぶるに及び、而して列侯の成功、唯独り参のみ其の名を擅にす。参漢の相国と為り、清静にして極めて道に合ふを言ふ。然れども百姓秦の酷を離るるの後、参休息無為を与ふ、故に天下俱に其の美を称す。
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史記 蕭相国世家上布の軍を罷めて帰る、民道を遮り行きて上書し、相国賤く民の田宅数千万を彊買すと言ふ。上至る、相国謁す。上笑ひて曰く、「夫れ相国乃ち民を利す」と。民の上る所の書皆以て相国に与へて、曰く、「君自ら民に謝せよ」と。相国因りて民の為に請ひて曰く、「長安の地狭し、上林の中空地多く、棄てらる、願はくは民をして入りて田するを得しめ、槁を収めて禽獣の食と為すこと毋からしめん」と。上大いに怒りて曰く、「相国多く賈人の財物を受け、乃ち為に吾が苑を請ふ」と。乃ち相国を廷尉に下し、械して之を繫ぐ。数日にして、王衛尉侍し、前みて問ひて曰く、「相国何の大罪ありて、陛下之を系ぐこと暴なるや」と。上曰く、「吾聞く、李斯秦の皇帝に相たり、善有れば主に帰し、悪有れば自ら与ると。今相国多く賈豎の金を受けて民の為に吾が苑を請ひ、以て自ら民に媚ぶ、故に系ぎて之を治む」と。王衛尉曰く、「夫れ職事苟も民に便有りて之を請ふは、真に宰相の事なり、陛下奈何ぞ乃ち相国の賈人の銭を受くるを疑ふや。且つ陛下楚を距ぐこと数歳、陳豨・黥布反き、陛下自ら将ゐて往く、是の時に当たり、相国関中を守る、足を揺らせば則ち関以西は陛下の有に非ず。相国此の時を以て利を為さず、今乃ち賈人の金を利せんや。且つ秦は其の過ちを聞かざるを以て天下を亡ぼす、李斯の過ちを分かつは、又何ぞ法るに足らんや。陛下何ぞ宰相を疑ふことの浅きや」と。高帝懌ばず。是の日、使をして節を持して赦して相国を出さしむ。相国年老い、素より恭謹なり、入りて、徒跣して謝す。高帝曰く、「相国休めよ。相国民の為に苑を請ふ、吾許さず、我は桀紂の主為るに過ぎず、而して相国は賢相為り。吾故に相国を系ぎしは、百姓をして吾が過ちを聞かしめんと欲すればなり」と。何素より曹参と相能からず、何の病むに及び、孝恵自ら臨みて相国の病を視、因りて問ひて曰く、「君即し百歳の後、誰か君に代はるべき者ぞ」と。対へて曰く、「臣を知るは主に如くは莫し」と。孝恵曰く、「曹参は何如」と。
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史記 蕭相国世家語は淮陰侯の事の中に在り。漢王兵を引きて東のかた三秦を定む、何丞相を以て留まりて巴蜀を収め、填撫諭告し、軍食に給せしむ。漢二年、漢王諸侯と楚を撃つ、何関中を守り、太子に侍し、櫟陽を治む。法令約束を為り、宗廟社稷宮室県邑を立て、輒ち奏上し、可とせらるれば、許して以て事に従ふ。即し奏上するに及ばざれば、輒ち便宜を以て施行し、上来たれば以て聞す。関中の事は戸口を計りて転漕して軍に給す、漢王数々軍を失ひて遁れ去る、何常に関中の卒を興し、輒ち缺を補ふ。上此を以て専ら何に関中の事を属任す。漢三年、漢王項羽と京索の間に相距ぐ、上数々使をして丞相を労苦せしむ。鮑生丞相に謂ひて曰く、「王衣を暴し蓋を露す、数々使をして君を労苦せしむる者は、君を疑ふの心有るなり。君の為に計るに、君の子孫昆弟の能く兵に勝ふる者を遣はして悉く軍所に詣らしむるに若くは莫し、上必ず益々君を信ぜん」と。是に於て何其の計に従ふ、漢王大いに説ぶ。漢五年、既に項羽を殺し、天下を定め、功を論じて封を行ふ。群臣功を争ひ、歳余にして功決せず。高祖蕭何の功最も盛んなるを以て、封じて酇侯と為し、食む所の邑多し。功臣皆曰く、「臣等身は堅を被り鋭を執り、多き者は百余戦、少なき者は数十合、城を攻め地を掠むること、大小各々差有り。今蕭何未だ嘗て汗馬の労有らず、徒だ文墨を持して議論し、戦はず、顧て反りて臣等の上に居るは、何ぞや」と。高帝曰く、「諸君猟を知るか」と。曰く、「之を知る」と。
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