師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 五帝本紀

此二十二人咸成厥功:皋陶爲大理,平,民各伏得其實;伯夷主禮,上下咸讓;垂主工師,百工致功;益主虞,山澤辟;弃主稷,百穀時茂;契主司徒,百姓親和;龍主賓客,遠人至;十二牧行而九州莫敢辟違;唯禹之功爲大,披九山,通九澤,決九河,定九州,各以其職來貢,不失厥宜。方五千里,至于荒服。南撫交阯、北發,西戎、析枝、渠廋、氐、羌,北山戎、發、息慎,東長、鳥夷,四海之內咸戴帝舜之功。於是禹乃興之樂,致異物,鳳皇來翔。天下明德皆自虞帝始。舜年二十以孝聞,年三十堯舉之,年五十攝行天子事,年五十八堯崩,年六十一代堯踐帝位。踐帝位三十九年,南巡狩,崩於蒼梧之野。葬於江南九疑,是爲零陵。舜之踐帝位,載天子旗,往朝父瞽叟,夔夔唯謹,如子道。封弟象爲諸侯。舜子商均亦不肖,舜乃豫薦禹於天。十七年而崩。三年喪畢,禹亦乃讓舜子,如舜讓堯子。諸侯歸之,然後禹踐天子位。堯子丹朱,舜子商均,皆有疆土,以奉先祀。服其服,禮樂如之。以客見天子,天子弗臣,示不敢專也。自黃帝至舜、禹,皆同姓而異其國號,以章明德。故黃帝爲有熊,帝顓頊爲高陽,帝嚳爲高辛,帝堯爲陶唐,帝舜爲有虞。帝禹爲夏后而別氏,姓姒氏。

新字:此二十二人咸成厥功:皋陶為大理,平,民各伏得其実;伯夷主礼,上下咸譲;垂主工師,百工致功;益主虞,山沢辟;弃主稷,百穀時茂;契主司徒,百姓親和;竜主賓客,遠人至;十二牧行而九州莫敢辟違;唯禹之功為大,披九山,通九沢,決九河,定九州,各以其職来貢,不失厥宜。方五千里,至于荒服。南撫交阯、北発,西戎、析枝、渠廋、氐、羌,北山戎、発、息慎,東長、鳥夷,四海之内咸戴帝舜之功。於是禹乃興之楽,致異物,鳳皇来翔。天下明徳皆自虞帝始。舜年二十以孝聞,年三十堯舉之,年五十摂行天子事,年五十八堯崩,年六十一代堯践帝位。践帝位三十九年,南巡狩,崩於蒼梧之野。葬於江南九疑,是為零陵。舜之践帝位,載天子旗,往朝父瞽叟,夔夔唯謹,如子道。封弟象為諸侯。舜子商均亦不肖,舜乃予薦禹於天。十七年而崩。三年喪畢,禹亦乃譲舜子,如舜譲堯子。諸侯帰之,然後禹践天子位。堯子丹朱,舜子商均,皆有疆土,以奉先祀。服其服,礼楽如之。以客見天子,天子弗臣,示不敢専也。自黄帝至舜、禹,皆同姓而異其国号,以章明徳。故黄帝為有熊,帝顓頊為高陽,帝嚳為高辛,帝堯為陶唐,帝舜為有虞。帝禹為夏后而別氏,姓姒氏。

書き下し

此の二十二人咸厥の功を成す。皋陶大理と為りて、平らかにして、民各其の実を得るに伏す。伯夷礼を主りて、上下咸譲る。垂工師を主りて、百工功を致す。益虞を主りて、山沢辟く。棄稷を主りて、百穀時に茂る。契司徒を主りて、百姓親和す。龍賓客を主りて、遠人至る。十二牧行ひて九州敢へて辟違する莫し。唯だ禹の功を大なりと為す。九山を披き、九沢を通じ、九河を決し、九州を定め、各其の職を以て来貢し、厥の宜しきを失はず。方五千里、荒服に至る。南は交阯・北発を撫し、西は戎・析枝・渠廋・氐・羌、北は山戎・発・息慎、東は長・鳥夷、四海の内咸帝舜の功を戴く。是に於て禹乃ち九招の楽を興し、異物を致し、鳳皇来翔す。天下の明徳は皆虞帝より始まる。舜年二十にして孝を以て聞こえ、年三十にして堯之を挙げ、年五十にして天子の事を摂行し、年五十八にして堯崩じ、年六十一にして堯に代はりて帝位を践む。帝位を践むこと三十九年、南に巡狩し、蒼梧の野に崩ず。江南の九疑に葬る、是を零陵と為す。舜の帝位を践むや、天子の旗を載せ、往きて父瞽叟に朝し、夔夔として唯れ謹み、子の道の如くす。弟象を封じて諸侯と為す。舜の子商均も亦不肖なり。舜乃ち豫め禹を天に薦む。十七年にして崩ず。三年の喪畢はり、禹も亦乃ち舜の子に譲ること、舜の堯の子に譲るが如し。諸侯之に帰し、然る後に禹天子の位を践む。堯の子丹朱、舜の子商均、皆疆土有りて、以て先祀を奉ず。其の服を服し、礼楽之の如くす。客を以て天子に見え、天子臣とせず、敢へて専らにせざるを示すなり。黄帝より舜・禹に至るまで、皆姓を同じくして其の国号を異にし、以て明徳を章らかにす。故に黄帝を有熊と為し、帝顓頊を高陽と為し、帝嚳を高辛と為し、帝堯を陶唐と為し、帝舜を有虞と為す。帝禹は夏后と為りて氏を別にし、姓は姒氏なり。

現代語訳

この二十二人はみなその功績を成し遂げた。皋陶は大理(司法官)となって公平に裁き、民はそれぞれ実情どおりの判決を得て服した。伯夷は礼をつかさどり、上の者も下の者もみな譲り合った。垂は工師をつかさどり、職人たちはみな成果を上げた。益は虞をつかさどり、山林や沼沢が開けた。棄は農業をつかさどり、百穀は時節どおりに実った。契は司徒をつかさどり、民は親しみ和合した。龍は賓客の接待をつかさどり、遠方の人々もやって来た。十二州の長が職務を行い、九州で背く者はなかった。中でも禹の功績が最も大きかった。九つの山を切り開き、九つの沼沢を通じ、九つの河を切り開き、九州を定めた。各地はそれぞれの産物を職分に応じて貢ぎに来て、その適正さを失わなかった。その範囲は四方五千里、最も遠い荒服の地にまで及んだ。南は交阯・北発を安んじ、西は戎・析枝・渠廋・氐・羌、北は山戎・発・息慎、東は長・鳥夷に至るまで、四海の内はみな帝舜の功績を仰いだ。そこで禹は九招の音楽を興し、珍しい物が献上され、鳳凰が飛来した。天下に徳が明らかになったのは、みな虞の帝舜から始まった。舜は二十歳で孝行者として知られ、三十歳で堯に登用され、五十歳で天子の政務を代行し、五十八歳の時に堯が崩じ、六十一歳で堯に代わって帝位に即いた。帝位にあること三十九年、南方に巡狩して蒼梧(そうご)の野で崩じた。江南の九疑山に葬られた。これが零陵である。舜が帝位に即くと、天子の旗を車に立てて父の瞽叟のもとへ参上し、恐れ慎んで、子としての道を尽くした。弟の象を諸侯に封じた。舜の子の商均もまた愚かであった。そこで舜はあらかじめ禹を天に推薦した。十七年後に舜は崩じた。三年の喪が明けると、禹もまた舜の子に位を譲ろうとした。舜が堯の子に譲ろうとしたのと同じである。しかし諸侯は禹に帰服し、その後に禹は天子の位についた。堯の子の丹朱、舜の子の商均はいずれも領地を与えられ、先祖の祭祀を守った。自分たちの家の衣服を着て、礼楽もそれに従った。賓客として天子に謁見し、天子は彼らを臣下として扱わなかった。先代の帝の子孫を独り占めに従えるようなことはしない、という姿勢を示したのである。黄帝から舜・禹に至るまで、みな同じ姓でありながら国号を異にし、それぞれの明らかな徳を表した。そこで黄帝は有熊、帝顓頊は高陽、帝嚳は高辛、帝堯は陶唐、帝舜は有虞と号した。帝禹は夏后と号して氏を別にし、姓は姒(じ)氏である。

解説

舜の治世の総決算です。任命した二十二人がそれぞれ成果を上げ、中でも禹の治水の功が最も大きかったとされます。舜の生涯も年齢を追ってまとめられ、二十歳で孝行者として知られ、三十歳で登用、五十歳で摂政、六十一歳で即位、在位三十九年で南方巡狩の途中に崩じました。注目すべきは三つあります。帝位に即いた後も父に子として仕えたこと、自分を殺そうとした弟を諸侯に取り立てたこと、そして自分の子が不肖であると見て禹を後継に推したことです。堯から舜へ、舜から禹へと、同じ形の禅譲が繰り返されます。さらに、位を継がなかった先代の子にも領地を与え、臣下扱いせず賓客として遇しました。後継者を実力で選びつつ、創業家を粗末にしない。今の事業承継で、創業家と経営を分ける際にも、この配慮は大いに参考になります。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る