新書 / 修政語下
周文王問於粥子曰:「敢問君子將入其職,則其於民也何如?」粥子對曰:「唯,疑。請以上世之政詔於君王。政曰:君子將入其職,則其於民也,旭旭然如日之始出也。」周文王曰:「受命矣。」曰:「君子既入其職,則其於民也何若?」對曰:「君子既入其職,則其於民也,暯暯然如日之正中。」周文王曰:「受命矣。」曰:「君子既去其職,則其於民也何若?」對曰:「君子既去其職,則其於民也,暗暗然如日之已入也。故君子將入而旭旭者,義先聞也;既入而暯暯者,民保其福也;既去而暗暗者,民失其教也。」周文王曰:「受命矣。」
新字:周文王問於粥子曰:「敢問君子将入其職,則其於民也何如?」粥子対曰:「唯,疑。請以上世之政詔於君王。政曰:君子将入其職,則其於民也,旭旭然如日之始出也。」周文王曰:「受命矣。」曰:「君子既入其職,則其於民也何若?」対曰:「君子既入其職,則其於民也,暯暯然如日之正中。」周文王曰:「受命矣。」曰:「君子既去其職,則其於民也何若?」対曰:「君子既去其職,則其於民也,暗暗然如日之已入也。故君子将入而旭旭者,義先聞也;既入而暯暯者,民保其福也;既去而暗暗者,民失其教也。」周文王曰:「受命矣。」
書き下し
周の文王粥子に問いて曰く、「敢えて問う、君子将に其の職に入らんとすれば、則ち其の民に於けるや何如」と。粥子対えて曰く、「唯、疑う。請う、上世の政を以て君王に詔げん。政に曰く、君子将に其の職に入らんとすれば、則ち其の民に於けるや、旭旭然として日の始めて出ずるが如きなり」と。周の文王曰く、「命を受けたり」と。曰く、「君子既に其の職に入れば、則ち其の民に於けるや何若」と。対えて曰く、「君子既に其の職に入れば、則ち其の民に於けるや、暯暯然として日の正中するが如し」と。周の文王曰く、「命を受けたり」と。曰く、「君子既に其の職を去れば、則ち其の民に於けるや何若」と。対えて曰く、「君子既に其の職を去れば、則ち其の民に於けるや、暗暗然として日の已に入るが如きなり。故に君子将に入らんとして旭旭たる者は、義の先ず聞こゆればなり。既に入りて暯暯たる者は、民其の福を保てばなり。既に去りて暗暗たる者は、民其の教えを失えばなり」と。周の文王曰く、「命を受けたり」と。
現代語訳
周の文王が粥子に尋ねました。「うかがいたい。君子がこれからその職に就こうとするとき、民にとってはどのようなものですか」。粥子は答えました。「はい、確かではありませんが、昔の政事の言葉をもって王にお告げします。政事に言うには、君子がこれから職に就こうとするとき、民には、朝日がのぼり始めたようにきらきらと映ります」。文王は「教えを受けました」と言いました。さらに尋ねました。「君子がすでにその職に就いたときは、民にとってはどのようなものですか」。粥子は答えました。「君子がすでに職に就いたときは、民には、日が真昼にかかったようにあかるく映ります」。文王は「教えを受けました」と言いました。また尋ねました。「君子がその職を去ったときは、民にとってはどのようなものですか」。粥子は答えました。「君子がすでに職を去ったときは、民には、日がすでに沈んだようにほの暗く映ります。ですから君子が就こうとするときに朝日のようなのは、その義がまず評判になるからです。就いて真昼のようなのは、民がその福を保つからです。去って暗いのは、民がその教えを失うからです」。文王は「教えを受けました」と言いました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 五帝本紀堯子丹朱の不肖にして、天下を授くるに足らざるを知る。是に於て乃ち権りて舜に授く。舜に授くれば、則ち天下其の利を得て丹朱病む。丹朱に授くれば、則ち天下病みて丹朱其の利を得。堯曰く、「終に天下の病を以て一人を利せず」と。而して卒に舜に授くるに天下を以てす。堯崩じ、三年の喪畢はり、舜丹朱に譲りて南河の南に辟く。諸侯の朝覲する者は丹朱に之かずして舜に之き、獄訟する者は丹朱に之かずして舜に之き、謳歌する者は丹朱を謳歌せずして舜を謳歌す。舜曰く、「天なるかな」と。而る後に中国に之きて天子の位を践む。是を帝舜と為す。虞舜は、名を重華と曰ふ。重華の父を瞽叟と曰ひ、瞽叟の父を橋牛と曰ひ、橋牛の父を句望と曰ひ、句望の父を敬康と曰ひ、敬康の父を窮蟬と曰ひ、窮蟬の父を帝顓頊と曰ひ、顓頊の父を昌意と曰ふ。以て舜に至るまで七世なり。窮蟬より以て帝舜に至るまで、皆微にして庶人為り。舜の父瞽叟は盲にして、舜の母死し、瞽叟更に妻を娶りて象を生む。象は傲なり。瞽叟後妻の子を愛し、常に舜を殺さんと欲す。舜避け逃る。小過有るに及べば、則ち罪を受く。父及び後母と弟とに順事し、日に以て篤謹にして、懈ること有る匪し。舜は、冀州の人なり。舜歴山に耕し、雷沢に漁し、河浜に陶し、什器を寿丘に作り、時に負夏に就く。舜の父瞽叟は頑、母は嚚、弟象は傲にして、皆舜を殺さんと欲す。舜順適して子の道を失はず、兄弟に孝慈なり。殺さんと欲するも、得可からず。即ち求むれば、嘗に側に在り。舜年二十にして孝を以て聞こゆ。三十にして帝堯用ゐる可き者を問ふに、四嶽咸虞舜を薦めて、可なりと曰ふ。
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史記 蕭相国世家何頓首して曰く、「帝之を得たり。臣死すとも恨みず」と。何田宅を置くに必ず窮処に居り、家を為るに垣屋を治めず。曰く、「後世賢ならば、吾が倹を師とせよ。賢ならずんば、勢家の奪ふ所と為ること毋からん」と。孝恵二年、相国何卒し、謚して文終侯と為す。後嗣罪を以て侯を失ふ者四世、絶ゆ、天子輒ち複た何の後を求め、封じて酇侯を続がしむ、功臣之に比するを得る莫し。
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『春秋左氏伝』昭公七年 其の父薪を析く晉侯間有り。子產に莒の二方鼎を賜ふ。子產豐施の為に州田を韓宣子に歸して曰く、「日(さき)に君夫の公孫段を以て、能く其の事に任ふと為して、之に州田を賜ふ。今祿無くして早世し、久しく君の德を享くるを獲ず。其の子敢へて有たず、敢へて以て君に聞せず、私かに諸を子に致す」と。宣子辭す。子產曰く、「古人言有りて曰く、『其の父薪を析くも、其の子負荷する克はず』と。施將に其の先人の祿に任ふる能はざるを懼る。其れ況んや能く大國の賜に任へんや。縱ひ吾子政を為して可なりとも、後の人若し屬(たまたま)疆埸の言有らば、敝邑戾を獲て、豐氏其の大討を受けん。吾子州を取らば、是れ敝邑を戾より免れしめて、豐氏を建置するなり。敢へて以て請ふと為す」と。宣子之を受け、以て晉侯に告ぐ。晉侯以て宣子に與ふ。宣子初言の為に、之を有つを病み、以て原縣を樂大心に易ふ。
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史記 樊酈滕灌列伝三歳、絳侯勃相を免ぜられて国に就き、嬰丞相と為り、太尉の官を罷む。是の歳、匈奴大いに北地・上郡に入り、丞相嬰をして騎八万五千を将ゐて往きて匈奴を撃たしむ。匈奴去り、済北王反し、詔して乃ち嬰の兵を罷む。後歳余にして、嬰丞相を以て卒し、諡して懿侯と曰ふ。子平侯阿代りて侯たり。二十八年にして卒し、子彊代りて侯たり。十三年、彊罪有り、絶ゆること二歳。元光三年、天子灌嬰の孫賢を封じて臨汝侯と為し、灌氏の後を続がしむ、八歳にして、賕を行ふに坐して罪有り、国除かる。
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史記 周本紀古公卒し、季歴立つ。是を公季と為す。公季古公の遺道を修め、行義に篤く、諸侯之に順ふ。公季卒し、子昌立つ。是を西伯と為す。
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史記 殷本紀先王の言勉めざる可からず』と。曰く、『道ならずんば、国に在る毋かれ、女我を怨む毋かれ』と」と。以て諸侯に令す。伊尹咸有一徳を作り、咎単明居を作る。湯乃ち正朔を改め、服色を易へ、白を上び、朝会は昼を以てす。湯崩じ、太子太丁未だ立たずして卒す。是に於て迺ち太丁の弟外丙を立つ。是を帝外丙と為す。帝外丙即位三年にして崩じ、外丙の弟中壬を立つ。是を帝中壬と為す。帝中壬即位四年にして崩じ、伊尹迺ち太丁の子太甲を立つ。太甲は、成湯の適長孫なり。是を帝太甲と為す。帝太甲の元年、伊尹伊訓を作り、肆命を作り、徂后を作る。
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