新書 / 保傅
殷爲天子三十餘世而周受之,周爲天子三十餘世而秦受之,秦爲天子二世而亡。人性非甚相遠也,何殷周之君有道而長也,而秦無道之暴也?其故可知也。
新字:殷為天子三十余世而周受之,周為天子三十余世而秦受之,秦為天子二世而亡。人性非甚相遠也,何殷周之君有道而長也,而秦無道之暴也?其故可知也。
書き下し
殷は天子と為ること三十余世にして周之を受け、周は天子と為ること三十余世にして秦之を受け、秦は天子と為ること二世にして亡ぶ。人の性は甚だしくは相遠からざるに、何ぞ殷周の君は道有りて長く、秦は無道の暴なるや。其の故は知る可きなり。
現代語訳
殷は三十余代にわたって天子となり、周がこれを受け継ぎました。周は三十余代にわたって天子となり、秦がこれを受け継ぎました。秦は二代で滅びました。人の生まれつきはそれほど大きく違わないのに、なぜ殷や周の君は道があって長く続き、秦は道がなく乱暴だったのでしょうか。その理由は知ることができます。
解説
「保傅」の冒頭にあたる短い段で、殷周が三十代余り続き、秦が二代で滅びたという対比を示し、なぜかと問いを立てます。賈誼は、人の性は大差ないと前置きすることで、答えを君主の生まれつきではなく環境や教育に導く構えを取ります。数字を並べて差を際立たせ、理由は知ることができる、と次の論に引き継ぐ書き方は、過秦論に通じる彼らしい運びです。この問いは、組織の長続きと短命の差にも通じます。優れた創業者の後を継いだ代で傾く会社と、世代を越えて続く会社の差を、個人の資質に求めるのは簡単ですが、賈誼は育ち方と周囲の整え方に原因を求めています。承継を考える経営者にとって、素質探しより環境づくりの視点を促す問いです。
この章句が説くこと
事業承継殷周秦環境世代交代新書
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