慎思録 / 巻之六
余氣骨鄙薄。本是薄福之人。宜乎其多殃禍也。故自壯歲屢逢災厄。將死者數焉。葢如暴病危急。或屢逢暴風洪濤。舟將覆之類。然而幸自天祐之。每免死亡。雖予平生不諂于鬼神。如有鬼神保護然。且無飢寒之憂。老壽超越八秩。何其多幸也。皆是天恩。可感戴。
新字:余気骨鄙薄。本是薄福之人。宜乎其多殃禍也。故自壮歳屡逢災厄。将死者数焉。葢如暴病危急。或屡逢暴風洪濤。舟将覆之類。然而幸自天祐之。毎免死亡。雖予平生不諂于鬼神。如有鬼神保護然。且無飢寒之憂。老寿超越八秩。何其多幸也。皆是天恩。可感戴。
書き下し
余は気骨鄙薄にして、本是れ薄福の人なり。宜なるかな其の殃禍多きこと。故に壮歳より屢災厄に逢ひ、将に死せんとする者数なり。蓋し暴病危急、或は屢暴風洪濤に逢ひ、舟将に覆らんとするの類の如し。然り而して幸ひに天自り之を祐け、毎に死亡を免る。予平生鬼神に諂はずと雖も、鬼神の保護有るが如く然り。且つ飢寒の憂ひ無く、老寿八秩を超越す。何ぞ其れ多幸なるや。皆是れ天恩なり。感戴すべし。
現代語訳
私は体つきも気力も弱く、もともと福の薄い人間です。災いが多いのも当然です。だから壮年のころからしばしば災厄に遭い、死にかけたことが何度もありました。急な病で危うくなったり、何度も暴風や大波に遭って船が転覆しかけたりしたようなことです。しかし幸いに天が助けてくれて、そのたびに死を免れました。私は日ごろ鬼神にへつらったことはありませんが、まるで鬼神が守ってくれたかのようです。そのうえ飢えや寒さの憂いもなく、長寿は八十歳を超えました。なんと幸いの多いことでしょう。みな天の恩です。感謝していただくべきです。
解説
生来体が弱く、壮年から大病や海難で何度も死にかけながら、そのたびに助かって八十を超えたことを天恩として感謝した自述の条です。益軒は幼いころ病弱だったことで知られ、それが『養生訓』を著す背景になりました。藩命で京都や江戸に往来する際の船旅では嵐にも遭いました。「鬼神に諂はず」は『論語』為政篇の「其の鬼に非ずして之を祭るは諂ふなり」を踏まえます。危うい経験を運の悪さではなく、助かった幸いとして数える見方が心を支えます。
この章句が説くこと
天恩感謝養生長寿災厄
関連する章句
-
『慎思録』巻之六愚の如きは晩出にして、凡庸の才、固陋の学、且つ浅徳薄行にして、固より称するに足る者無し。然れども幸ひに天の霊に頼り、地の徳に倚り、父母の生育に因り、主君の恩沢に浴し、聖人の至教を仰ぎ、先賢の開導に依る。且つ天の祐けに逢ひて、寿を享くること既に八十有四歳。幼より勤苦して年を積み、髣髴として道理の万一に見る所有るを得たり。区区の福を受くること、此くの如く其れ大なり。感戴罔極なりと謂ふべし。則ち吾が身の至眇なる、天地父母君主聖賢の恩を受くるや、厚くして且つ大なりと謂ふべし。又幸ひに天之を祐くるを得て寿域に躋り、読書静養の娯楽有り。之に報いんと欲するの徳、昊天豈に極まり有らんや。又何ぞ俸養の菲薄なるを以て妄りに憂戚を生ぜんや。
-
『慎思録』巻之四我が生の初め、尚ほ為す無し。我が生の後、此の百罹に逢ふ、と。嗚呼、人生此の如きは、不幸と謂ふべし。然れども天命は之を奈何ともし難し。唯だ尚はくは寐ねて吪くこと無からん、以て命に安んずべし。魏志に曰く、胡昭は怡怡として愛せざるは無し。僕隷と雖も必ず礼を加ふ、と。年八十にして書籍に倦まざる者は、胡徴君に於て之を見る。篤信謂ふ、胡昭の愛敬の徳量は及ぶべからず。以て法と為すべし。八十にして書を読みて倦まざるが如きは、吾髦耋と雖も、亦た日夕手に巻を釈かず。是れ企て及ぶべしと為す。
-
『慎思録』巻之六吾が生既に寿域に躋る。人間の飲食嗜好遊観笑談、諸の快楽の事、頗る既に経歴し了る。苟も尚ほ貪求して饜かずんば、止足の道を知らずと謂ふべし。唯だ澹泊寡欲を以て分の宜と為す。故に飲食は生に順ふを取り、衣服は体に適ふを取る。凡そ身に奉ずるの物は、皆分外に豊美なるを須ゐず。日夜従容安静にして、聊か残軀を養ひて自ら楽しむ。其の他得失毀誉死生禍福は、皆天命に順ひて、憂ふべからざるのみ。
-
『慎思録』巻之五人の吉凶禍福寿夭貧富は、皆天命の素より定むる所にして、人各定分有り。故に短き者は之を長くすべからず。少なき者は之を多くすべからず。且つ天道は善に福し淫に禍す。則ち善なる者は福報有り、不善なる者は禍報有り。是れ必然の理なり。然れども善を為す者も或いは禍有り、不善を為す者も或いは福有り。是れ亦受くる所の厚薄に因りて定分有るなり。夫れ禍福貧富は、皆天の命ずる所にして、定分有ること此くの如し。鬼神焉んぞ諂祈する者に私して、其の常理を変じ、之に福禄を与へ、之に災禍を赦さんや。蓋し鬼神は、自ら是れ聡明正直にして、非礼を享けず。人間の貪官の賄を納れ、容悦して私を行ふ者の比に非ず。胡ぞ非礼の禱請を以て僥倖と為して、福を得禍を免るるの理有らんや。此の理甚だ昭晰なり。明者は固より言を待たずして知るべし。愚者と雖も亦微しく省悟すべきのみ。苟も禍に遭ひて禱請する者、能く己を責め悪を遏むれば、則ち禍を免るるの理有り。天を畏れ善を作せば、則ち福を獲るの理有り。孔子曰く、罪を天に獲れば、禱る所無し、と。又曰く、丘の禱ること久し、と。然らば則ち理に違ひ天に逆ふ者は、正神に禱ると雖も、亦福を得るの理無し。况や淫祠に禱るをや。何の福か之れ有らん。古人曰く、祭るべからざる所にして之を祭る、之を淫祠と謂ふ。淫祠に福無し、と。此の言豈に信ぜざるべけんや。
-
『慎思録』巻之六古語に曰く、清楽は天の慳惜する所、功名爵禄に百倍すと。此れ真儒の言に非ずと雖も、亦理有り。何となれば則ち功名爵禄を得る者は、世世少なからず。唯だ清福の楽を得る者は鮮し。予の如きは固より庸劣なるも、幼より聖賢の書を読み、義理の学に志有りて、老に至るまで未だ休まず。幸ひに天之に年を仮し、且つ屢京師に遊び、諸州を歴観す。書数百部を貯へ、且つ飽煖逸居して出入に僕従有り。是れ清福を享くること多しと謂ふべし。天の我を愛すること誠に厚し。只恨むらくは此の清福を享けて、居然として嘉穀を食み、白日を消し、人に補ひ無きことを。天地の間の一蠹と謂ふべし。真に畏るべきのみ。然らば則ち貧賤にして下に在りと雖も、然れども吾の清福を得るの幸ひ為るや、富貴功名に倍すること遠し。歉を抱くべからず。況んや吾の庸材、其の貧賤なる者は、乃ち分の宜なり。分外豈に願ふべけんや。且つ天地の物を生ずるや、両全すること能はず。是を以て翼有る者は手無く、角有る者は牙無し。花の美なる者は、其の実食ふべからず。実の美なる者は、其の花観るに足らず。然らば則ち既に清福を得れば、則ち貧窮なりと雖も、亦奚ぞ慊らざらんや。鄒浩曰く、人間世の楽しみ、能く読書に易ふる者有らんやと。誠なるかな斯の言や。読書の楽しみは、富貴爵禄に超ゆること信に遠し。仍ほ爵禄を羨むべけんや。
-
『慎思録』巻之四人生まれて命を天に受くるなり。賢愚の命有り、禍福の命有り。其の吉凶禍福賢愚美悪は、皆是れ天の命ずる所にして、之を有生の初めに得て、厚薄の定分有り。然れども天心有りて之を降すに非ず。其の命を天に受くる所は、是れ陰陽変化の道にして、鬼神造化の為す所、偶然なるのみ。然り而して天道の善に福し淫に禍するは、是れ本然の理にして、偶然なる者に非ざるなり。