慎思録 / 巻之五
人之吉凶禍福壽夭貧富。皆天命之所素定。人各有定分。故短者不可長之。少者不可多之。且天道福善禍淫。則善者有福報。不善者有禍報。是必然之理。然爲善者或有禍。爲不善者或有福。是亦因所受之厚薄。而有定分也。夫禍福貧富。皆天之所命。而有定分如此。鬼神焉私于諂祈者。而變其常理。與之福祿。赦之災禍乎。葢鬼神者。自是聰明正直。而不享非禮。非人間貪官之納賄。容悅而行私者之比。胡以非禮之禱請爲僥倖。而有得福免禍之理乎。此理甚昭晰。明者固不待言可知矣。雖愚者亦可微省悟而巳。苟遭禍而禱請者。能責己遏惡。則有免禍之理。畏天作善。則有獲福之理。孔子曰。獲罪於天。無所禱也。又曰。丘之禱久矣。然則違理逆天者。雖禱正神。亦無得福之理。况禱淫祠乎。何福之有。古人曰。所不可祭而祭之。謂之淫祠。淫祠無福。此言豈可不信乎。
新字:人之吉凶禍福寿夭貧富。皆天命之所素定。人各有定分。故短者不可長之。少者不可多之。且天道福善禍淫。則善者有福報。不善者有禍報。是必然之理。然為善者或有禍。為不善者或有福。是亦因所受之厚薄。而有定分也。夫禍福貧富。皆天之所命。而有定分如此。鬼神焉私于諂祈者。而変其常理。与之福禄。赦之災禍乎。葢鬼神者。自是聰明正直。而不享非礼。非人間貪官之納賄。容悦而行私者之比。胡以非礼之祷請為僥倖。而有得福免禍之理乎。此理甚昭晰。明者固不待言可知矣。雖愚者亦可微省悟而巳。苟遭禍而祷請者。能責己遏悪。則有免禍之理。畏天作善。則有獲福之理。孔子曰。獲罪於天。無所祷也。又曰。丘之祷久矣。然則違理逆天者。雖祷正神。亦無得福之理。況祷淫祠乎。何福之有。古人曰。所不可祭而祭之。謂之淫祠。淫祠無福。此言豈可不信乎。
書き下し
人の吉凶禍福寿夭貧富は、皆天命の素より定むる所にして、人各定分有り。故に短き者は之を長くすべからず。少なき者は之を多くすべからず。且つ天道は善に福し淫に禍す。則ち善なる者は福報有り、不善なる者は禍報有り。是れ必然の理なり。然れども善を為す者も或いは禍有り、不善を為す者も或いは福有り。是れ亦受くる所の厚薄に因りて定分有るなり。夫れ禍福貧富は、皆天の命ずる所にして、定分有ること此くの如し。鬼神焉んぞ諂祈する者に私して、其の常理を変じ、之に福禄を与へ、之に災禍を赦さんや。蓋し鬼神は、自ら是れ聡明正直にして、非礼を享けず。人間の貪官の賄を納れ、容悦して私を行ふ者の比に非ず。胡ぞ非礼の禱請を以て僥倖と為して、福を得禍を免るるの理有らんや。此の理甚だ昭晰なり。明者は固より言を待たずして知るべし。愚者と雖も亦微しく省悟すべきのみ。苟も禍に遭ひて禱請する者、能く己を責め悪を遏むれば、則ち禍を免るるの理有り。天を畏れ善を作せば、則ち福を獲るの理有り。孔子曰く、罪を天に獲れば、禱る所無し、と。又曰く、丘の禱ること久し、と。然らば則ち理に違ひ天に逆ふ者は、正神に禱ると雖も、亦福を得るの理無し。况や淫祠に禱るをや。何の福か之れ有らん。古人曰く、祭るべからざる所にして之を祭る、之を淫祠と謂ふ。淫祠に福無し、と。此の言豈に信ぜざるべけんや。
現代語訳
人の吉凶・禍福・長寿短命・貧富はすべて天命が前もって定めたもので、人にはそれぞれ定まった分があります。だから短いものを長くすることはできず、少ないものを多くすることはできません。また天の道は善に福を与え悪に禍を与えます。善い者には福の報いがあり、善くない者には禍の報いがある。これが必然の理です。しかし善を行う者にも禍があることがあり、善くないことをする者にも福があることがあります。これもまた受けた天分の厚い薄いによって定まった分があるのです。禍福や貧富はすべて天の命じるものであり、このように定まった分があります。鬼神がどうして、へつらって祈る者をひいきして常の理を曲げ、福禄を与えたり災いを許したりするでしょうか。そもそも鬼神はもとより聡明で正直であり、礼にかなわない供えは受けません。世間の欲深い役人が賄賂を受け取り、気に入った者のために私情で動くのとは比べものになりません。どうして礼にかなわない祈りで思いがけない幸いを得て、福を得たり禍を免れたりする理がありましょうか。この理はきわめて明らかです。賢い者は言うまでもなくわかるでしょうし、愚かな者でも少しは悟れるはずです。もし禍にあって祈る者が、自分を責めて悪を止めることができれば、禍を免れる理があります。天を畏れて善を行えば、福を得る理があります。孔子は「天に罪を得れば、祈るところはない」と言い、また「私の祈りは久しいものだ」と言いました。それなら、理に背き天に逆らう者は、正しい神に祈っても福を得る理はありません。まして正しくない祠に祈ってどんな福がありましょうか。昔の人は「祭るべきでないものを祭るのを淫祠という。淫祠に福はない」と言いました。この言葉をどうして信じずにいられましょうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孔子家語・五儀解哀公孔子に問いて曰く、「夫れ国家の存亡禍福は、信に天命有りて、唯だ人のみに非ざるか。」孔子対えて曰く、「存亡禍福は、皆己のみ。天災地妖は、加うる能わざるなり。」公曰く、「善いかな。吾子の言、豈に其の事有るか。」孔子曰く、「昔者殷王帝辛の世、雀の大鳥を城隅に生む有り。之を占いて曰く、『凡そ小を以て大を生ずれば、則ち国家必ず王として名必ず昌んならん』と。是に於て帝辛雀の徳を介として、国政を修めず、亢暴極まり無く、朝臣救うこと莫く、外寇乃ち至りて、殷国以て亡ぶ。此れ即ち己を以て天時に逆らい、福を詭りて反りて禍と為す者なり。又其の先世殷王太戊の時、道缺け法圮れ、以て夭櫱・桑穀朝に致し、七日にして大いに拱す。之を占う者曰く、『桑穀は野木にして朝に合生せず、意者国亡びんか』と。太戊恐駭し、身を側めて行を修め、先王の政を思い、養民の道を明らかにす。三年の後、遠方義を慕いて重訳して至る者、十有六国。此れ即ち己を以て天時に逆らい、禍を得て福と為す者なり。故に天災地妖は、人主を儆む所以の者なり。寤夢征怪は、人臣を儆む所以の者なり。災妖は善政に勝たず、寤夢は善行に勝たず。能く此を知る者は、至治の極なり。唯だ明王のみ此に達す。」公曰く、「寡人鄙固此くの如きに、亦た君子の教を聞くを得ざりしなり。」
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孟子・梁惠王章句下魯の平公將に出でんとす。嬖人臧倉なる者請うて曰く、「他日、君出づれば、則ち必ず有司に之く所を命ず。今、輿に乘り已に駕す。有司未だ之く所を知らず。敢て請う。」公曰く、「將に孟子を見んとす。」曰く、「何ぞや。君の為す所、身を輕んじて以て匹夫に先だつとは。以て賢と為すか。禮義は賢者由り出づ。而るに孟子の後喪は前喪に踰えたり。君、見る無かれ。」公曰く、「諾。」樂正子、入り見えて曰く、「君、奚為れぞ孟軻を見ざるや。」曰く、「或ひと寡人に告げて曰く、『孟子の後喪は前喪を踰えたり。』是を以て往きて見ざるなり。」曰く、「何ぞや。君の所謂踰ゆとは。前には士を以てし、後には大夫を以てし、前には三鼎を以てし、後には五鼎を以てしたるか。」曰く、「否。棺槨衣衾の美を謂うなり。」曰く、「所謂踰ゆるには非ざるなり。貧富同じからざればなり。」樂正子、孟子に見えて曰く、「克、君に告ぐ。君、來たり見んと為す。嬖人に臧倉なる者有り、君を沮む。君是を以て來たることを果たさざるなり。」曰く、「行くも之を使しむる或り、止まるも之を尼むる或り。行止は人の能くする所に非ざるなり。吾の魯侯に遇わざるは、天なり。臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」
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尚書・康誥惟れ命は常には于いてせず。
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