慎思録 / 巻之六
李白詩。淸風明月不用一錢買。白居易云。勝地本來無定主。大都山屬愛山人。夫風月江山四時佳景。使人悅樂。逾于富貴之驕樂。所謂彼以其富。我以我義。我何慊乎哉。然淸福之樂。實勝于富貴也遠矣。不須與彼抗敵。爭其優劣。故不慊不足言而已。吾之凡庸。固不能不願富貴。然而幸享淸福之樂多矣。故知貧賤淸樂之勝乎富貴驕樂。而不戚戚于貧賤。不汲汲于富貴者。是天之所祐。君之所賜而然。可爲幸甚。
新字:李白詩。清風明月不用一銭買。白居易云。勝地本来無定主。大都山属愛山人。夫風月江山四時佳景。使人悦楽。逾于富貴之驕楽。所謂彼以其富。我以我義。我何慊乎哉。然清福之楽。実勝于富貴也遠矣。不須与彼抗敵。争其優劣。故不慊不足言而已。吾之凡庸。固不能不願富貴。然而幸享清福之楽多矣。故知貧賤清楽之勝乎富貴驕楽。而不戚戚于貧賤。不汲汲于富貴者。是天之所祐。君之所賜而然。可為幸甚。
書き下し
李白の詩に、清風明月一銭の買ふを用ゐずと。白居易云ふ、勝地本来定主無し、大都山は山を愛する人に属すと。夫れ風月江山四時の佳景は、人をして悦楽せしむること、富貴の驕楽に逾ゆ。所謂彼は其の富を以てし、我は我が義を以てす、我何ぞ慊らんやとは。然れども清福の楽しみは、実に富貴に勝ること遠し。彼と抗敵して、其の優劣を争ふを須ゐず。故に慊らざるは言ふに足らざるのみ。吾の凡庸なる、固より富貴を願はざること能はず。然り而して幸ひに清福の楽しみを享くること多し。故に貧賤清楽の富貴驕楽に勝ることを知りて、貧賤に戚戚たらず、富貴に汲汲たらざる者は、是れ天の祐くる所、君の賜ふ所にして然り。幸甚と為すべし。
現代語訳
李白の詩に「清らかな風と明るい月は一銭も出して買う必要がない」とあり、白居易は「景勝の地にはもともと決まった主はいない。おおよそ山は山を愛する人のものだ」と言いました。そもそも風や月、川や山、四季のよい景色は、人を喜ばせ楽しませることが、富貴の驕った楽しみを上回ります。『孟子』にいう「彼は富をもってし、我は我が義をもってする。我に何の不足があろうか」です。しかし清らかな福の楽しみは、実に富貴にはるかに勝るのですから、彼と張り合ってその優劣を争う必要はありません。だから不足を言うまでもないのです。私は凡庸で、もとより富貴を願わないわけにはいきません。しかし幸いに清らかな福の楽しみを多く受けています。だから貧賤の清らかな楽しみが富貴の驕った楽しみに勝ることを知って、貧賤にくよくよせず、富貴にあくせくしないでいられるのは、天が助け、主君が賜ってくださったおかげです。まことに幸いなことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之二古の君子は多く江山林泉の勝を慕ひて、富貴の崇高を忘る。夫れ山林と爵禄とは、同じく是れ外物なり。之を慕ふ者に、鄙と達との異有り。其の故は何ぞや。蓋し富貴は之を得るに、義有り命有り。而して其の楽しみや浅し。妄りに得んと欲する者を鄙と為し、且つ命を知らずと為すなり。山林の勝、風月の楽しみの如きは、之を取るに禁無く、之を好む者を主と為す。慕ふ者は貪るに非ずして、之を得る者を以て清福と為す。其の楽しみや深し。此れ君子の之を愛慕する所以なり。
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『慎思録』巻之六古語に曰く、清楽は天の慳惜する所、功名爵禄に百倍すと。此れ真儒の言に非ずと雖も、亦理有り。何となれば則ち功名爵禄を得る者は、世世少なからず。唯だ清福の楽を得る者は鮮し。予の如きは固より庸劣なるも、幼より聖賢の書を読み、義理の学に志有りて、老に至るまで未だ休まず。幸ひに天之に年を仮し、且つ屢京師に遊び、諸州を歴観す。書数百部を貯へ、且つ飽煖逸居して出入に僕従有り。是れ清福を享くること多しと謂ふべし。天の我を愛すること誠に厚し。只恨むらくは此の清福を享けて、居然として嘉穀を食み、白日を消し、人に補ひ無きことを。天地の間の一蠹と謂ふべし。真に畏るべきのみ。然らば則ち貧賤にして下に在りと雖も、然れども吾の清福を得るの幸ひ為るや、富貴功名に倍すること遠し。歉を抱くべからず。況んや吾の庸材、其の貧賤なる者は、乃ち分の宜なり。分外豈に願ふべけんや。且つ天地の物を生ずるや、両全すること能はず。是を以て翼有る者は手無く、角有る者は牙無し。花の美なる者は、其の実食ふべからず。実の美なる者は、其の花観るに足らず。然らば則ち既に清福を得れば、則ち貧窮なりと雖も、亦奚ぞ慊らざらんや。鄒浩曰く、人間世の楽しみ、能く読書に易ふる者有らんやと。誠なるかな斯の言や。読書の楽しみは、富貴爵禄に超ゆること信に遠し。仍ほ爵禄を羨むべけんや。
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『慎思録』巻之三富貴栄達の人は、佚遊燕楽を以て娯しみと為し、月花山水幽寂の楽しみ、意味尤も深長なるを知らず。唯貧窮不遇の人のみ、斯の楽しみを享くるを得。然れども斯の楽しみを知りて、之を享くる者も、亦少し。况んや道徳の至楽を知る者をや。
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『慎思録』巻之六貧賤は衆人の悪む所、富貴は衆人の好む所なり。然れども学問の好否を以て之を論ずれば、則ち貧賤にして学を好む者は、其の富貴にして学ばざる者に勝る所遠し。何ぞや。蓋し貧賤なる者は、身に労苦有りと雖も、心に憂患無し。其の学を好む者は、清福の楽有りて、放縦の禍無く、閑暇多くして安静なり。少年より淫泆の災ひ、驕怠の失無し。故に刻苦して書を読む者は、其の心を用ゐるや精し。故に理に達し易くして、得る所深しと為す。富貴なる者は、身安佚なりと雖も、心憂苦多く、清福の楽無くして、淫溺の禍有り。幼より安逸に狃れ驕怠に耽りて、学問に勤労せず。故に心を用ゐること精しからずして、道理に於いて達する所無し。故に終身得る所無し。其の楽しむ所は飲食声色器玩服飾禽獣の間に止まりて、迷溺して身を終ふ。其の淫泆の甚だしき者は、楽しみ未だ既きずして憂ひ速やかに至る。是を以て災害洊りに至る。楽と為すべからず。或は此を以て楽と為すと雖も、然れども其の楽しむ所浅し。胡五峰曰く、貧賤に因りて修益する者は多く、富貴に因りて淫泆に失はざる者は寡しと。則ち富貴は貧賤に若かず。誠なるかな斯の言や。此を以て之を見れば、則ち富貴にして学を好まざる者は、其の損する所多く益する所少なく、且つ楽しむ所も亦寡しと為す。貧賤にして学を好む者は、其の益する所多く損する所少なく、且つ楽しむ所も亦多しと為す。豈に其れ然らざらんや。
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『慎思録』巻之一人の心に、本然の楽しみ有れば、則ち目の睹る所、耳の聴く所、身の触るる所、風花雪月四時の佳興、山川の好景、鳥獣の和鳴、草木の栄華、凡そ天地の間に満つる者は、皆以て吾が本然の楽しみを資くるに足る。是を以て天下の物を挙げて、皆以て吾が心を悦ばしめ吾が身を養ふの具と為すべし。其の富饒なるや、終身用ひ尽くすべからず。惟外物の美を藉りて以て吾が楽しみと為すに非ず。外物の美来たり触れて、吾が本然の楽しみを資くるのみ。苟も本然の楽しみ無ければ、則ち外物の我が身に奉じ我が欲を誘ふ者は、適に以て吾が心を累はし吾が身を傷ふの具と為すに足るのみ。何ぞ以て楽しみと為すに足らんや。
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『慎思録』巻之五李白の詩に曰く、此の酔中の楽しみを以て、醒者をして知らしむること勿かれ、と。此れ酔者には楽しみ有りて、醒者には楽しみ無きを言ふなり。李白は是れ放達の人にして、劉伶の輩と同じからず。然れども真の楽しみを知る者に非ざるなり。蓋し酔中に興を遣りて楽しみを得る者は、粗にして浅し。醒中に楽しみを知る者は、精にして深し。酔中の楽しみは知り易く、醒中の楽しみは知り難し。学者平日酔はざる時、更に別に常に娯楽の酔時に勝る有るを知ることを要す。此れ真の楽しみを知るなり。苟も真の楽しみを知れば則ち酔と醒とを論ぜず。醒むるも亦楽しく、酔ふも亦楽しく、時に随ひ処に随ひて、楽しからざる無し。苟も真の楽しみを得ること此くの如くならば、此れ酔飽声色宴遊の楽しみと同じからず。君子何ぞ酔時を待ちて而る後に初めて楽しまんや。