慎思録 / 巻之三
富貴榮達之人。以佚遊燕樂爲娛。不知月花山水幽寂之樂。意味尤深長。唯貧窮不遇之人。得享斯樂。然知斯樂。而享之者。亦少矣。况知道德之至樂者乎。
新字:富貴栄達之人。以佚遊燕楽為娯。不知月花山水幽寂之楽。意味尤深長。唯貧窮不遇之人。得享斯楽。然知斯楽。而享之者。亦少矣。況知道徳之至楽者乎。
書き下し
富貴栄達の人は、佚遊燕楽を以て娯しみと為し、月花山水幽寂の楽しみ、意味尤も深長なるを知らず。唯貧窮不遇の人のみ、斯の楽しみを享くるを得。然れども斯の楽しみを知りて、之を享くる者も、亦少し。况んや道徳の至楽を知る者をや。
現代語訳
富貴で出世した人は、遊びや宴会を楽しみとし、月や花や山水の静かな楽しみが、その味わいがとりわけ深いことを知りません。ただ貧しく不遇な人だけが、この楽しみを味わうことができます。しかしこの楽しみを知って味わう者も少ないのです。まして道徳の最高の楽しみを知る者はなおさら少ないのです。
解説
楽しみを三段階に分けた一条です。宴遊の楽しみ、月花山水の静かな楽しみ、そして道徳の至楽です。益軒は『楽訓』で、自然を楽しむことを人生の大きな楽しみとし、貧しくても誰でも味わえると説きました。ここでは、富貴の人は派手な楽しみに紛れて静かな楽しみを知らず、不遇の人こそ味わえるという逆説を示します。『論語』述而篇の「疏食を飯ひ水を飲み、肱を曲げて之を枕とす、楽しみ亦其の中に在り」に通じる考えで、お金をかけない楽しみの豊かさを教えてくれます。
この章句が説くこと
楽自然道徳富貴幽寂
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