慎思録 / 巻之二
古之君子多慕江山林泉之勝。而忘富貴之崇高。夫山林與爵祿。同是外物也。慕之者。有鄙與達之異。其故何也。葢富貴得之。有義有命焉。而其樂也淺矣。欲妄得者爲鄙。且爲不知命也。如山林之勝。風月之樂。取之無禁者。好之者爲主。慕焉者非貪。而以得之者爲淸福。其樂也深矣。此君子之所以愛慕之也。
新字:古之君子多慕江山林泉之勝。而忘富貴之崇高。夫山林与爵禄。同是外物也。慕之者。有鄙与達之異。其故何也。葢富貴得之。有義有命焉。而其楽也浅矣。欲妄得者為鄙。且為不知命也。如山林之勝。風月之楽。取之無禁者。好之者為主。慕焉者非貪。而以得之者為清福。其楽也深矣。此君子之所以愛慕之也。
書き下し
古の君子は多く江山林泉の勝を慕ひて、富貴の崇高を忘る。夫れ山林と爵禄とは、同じく是れ外物なり。之を慕ふ者に、鄙と達との異有り。其の故は何ぞや。蓋し富貴は之を得るに、義有り命有り。而して其の楽しみや浅し。妄りに得んと欲する者を鄙と為し、且つ命を知らずと為すなり。山林の勝、風月の楽しみの如きは、之を取るに禁無く、之を好む者を主と為す。慕ふ者は貪るに非ずして、之を得る者を以て清福と為す。其の楽しみや深し。此れ君子の之を愛慕する所以なり。
現代語訳
昔の君子の多くは、川や山、林や泉の美しい景色を慕って、富や地位の高さを忘れました。そもそも山林も爵禄も、同じく自分の外にある物です。それを慕う者に、卑しいと達観との違いがあるのはなぜでしょうか。思うに、富貴を得るには義があり命(めぐり合わせ)があります。そしてその楽しみは浅いのです。みだりに得ようとする者は卑しく、しかも命を知らないことになります。山林の景色や風月の楽しみのようなものは、取るのに禁じる者がなく、好む者がその主人となります。慕う者は貪っているのではなく、それを得るのを清らかな福とします。その楽しみは深いものです。これが君子が山林を愛し慕うわけです。
解説
同じ外物でも、富貴を慕えば卑しく、山水を慕えば達人とされるのはなぜか、を論じた条です。「之を取るに禁無し」は蘇軾「前赤壁賦」の清風明月をいう言葉で、好む者が主人となるという後半は蘇軾の「江山風月は本と常主無し、閑なる者便ち是れ主人」とも通じます。益軒は晩年まで各地を旅して紀行文を多く残しました。お金や肩書きは人と奪い合うものですが、景色や季節の楽しみは誰にも禁じられません。奪い合わずに得られる楽しみを持つ価値を教えてくれます。
この章句が説くこと
楽富貴山林清福知命
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