慎思録 / 巻之六
人之禀性不同。故其氣象亦異。氣象異則所見亦不同。此伯夷與柳下惠。雖同是大賢也。其氣象不同。故所見亦各偏異。葢人各有長短。又有偏異。雖賢者所不免也。然以其偏僻。不可廢棄其人也。
新字:人之禀性不同。故其気象亦異。気象異則所見亦不同。此伯夷与柳下恵。雖同是大賢也。其気象不同。故所見亦各偏異。葢人各有長短。又有偏異。雖賢者所不免也。然以其偏僻。不可廃棄其人也。
書き下し
人の禀性同じからず。故に其の気象も亦異なる。気象異なれば則ち見る所も亦同じからず。此れ伯夷と柳下恵と、同じく是れ大賢なりと雖も、其の気象同じからず。故に見る所も亦各偏異なり。蓋し人各長短有り、又偏異有り。賢者と雖も免れざる所なり。然れども其の偏僻を以て、其の人を廃棄すべからざるなり。
現代語訳
人の生まれつきの性質は同じではありません。だからその気象もまた異なります。気象が異なれば見方もまた同じではありません。伯夷と柳下恵はともに大賢ですが、その気象は同じではなく、だから見方もそれぞれ偏って異なっていました。思うに人にはそれぞれ長所と短所があり、また偏りや違いがあります。賢者でも免れないところです。しかしその偏りのために、その人を捨ててはならないのです。
解説
生まれつきの性質が違えば気象も見方も違い、賢者にも偏りがあるが、偏りを理由に人を捨ててはならないと説く条です。伯夷は清廉すぎ、柳下恵はおおらかすぎると『孟子』公孫丑上・万章下で評されながら、ともに聖人の一面を持つとされます。本巻で益軒は同じ主題に何度も立ち返っており、人を見る目の要としていたことが分かります。完璧な人はいません。癖のある人をどう活かすかが、人を用いる側の器量です。
この章句が説くこと
気象長短人を見る寛容孟子
関連する章句
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『慎思録』巻之六孟子曰く、伯夷は隘なり、柳下恵は不恭なりと。蓋し賢者以下は、往々禀性偏りて全からず。其の賢なること二子の如きも、亦其の病無きこと能はず。此に長ずと雖も、或いは彼に短なり。中庸の所謂其の次は曲を致す者なり。聖人の陰陽徳を合せ、短長の論ずべき無きに如かず。夫れ伯夷・柳下恵も亦偏性有り。此を以て之を看れば、康節・伊川の如きも、亦同じく是れ賢哲なりと雖も、然り而して偏性無きこと能はず。蓋し康節は伊川の謹厳に如かず、伊川は康節の寛舒に如かず。是れ賢者と雖も、亦各々長処有り短処有ること此くの如し。
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『慎思録』巻之六気象同じからざれば、則ち見る所も亦異なる。我が見る所と同じからざるを以て、概して非と為すべからず。古賢と雖も、其の見る所往往偏異にして、他の賢士と各同じからざる者多し。是れ物の斉しからざるは、物の情なり。
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『慎思録』巻之五人の稟性各異なる。故に其の好悪も亦同じからず。是を以て世に処り人に接するや、我を好む者有り、我を悪む者有り、我を誉むる者有り、我を毀る者有り。我の悪む所にして人の之を好む者有り、我の好む所にして人の之を悪む者有り。是れ乃ち人の遇と不遇と有る所以にして、君上の愛悪と臣下の栄辱と、皆此に繋る所なり。吾の人に於ける愛悪も、亦然り。其の偏僻なる者有らば、省察して之を正さざるべからず。
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『慎思録』巻之六経学を好みて、道を知り善を為すことを好まざる者有り。是れ経書の訓詁に通じて、義理に通ぜず、聖学の名を好みて、聖学の実を好まざるなり。此れ訓詁の学と為すべし。其の蔽塞此くの如き者有り。陸子静、伊川を喜ばず、以て其の人と為り蔽固深しと為す。蓋し陸子の学行は曠達にして、因りて伊川の謹厳と、其の禀性相類せざるなり。人の性は各偏る所有り。賢者と雖も免れざる所なり。伯夷・柳下恵の如き、是れなり。其の長ずる所を取れば、則ち衆人と雖も、亦用ゐるべき処有り。況んや賢者に於いてをや。苟も吾の識趣性行と合はざる所有るを以て、其の賢を廃するは、是れ寸瑕を以て尺璧を捨つるなり。人の善を取ること能はずと謂ふべし。象山の伊川を喜ばざるも亦然り。
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『呻吟語』外篇・聖賢・不夷不惠は君子後身の珍伯夷は冠の正しからざるを見れば、望望然として之を去る。何ぞ之に告げて正しからしめざる。柳下惠は袒裼裸程を見て、由由として與に偕にす。何ぞ之に告げて衣せしめざる。故に曰く、夷ならず惠ならざるは、君子後身の珍なり。
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『慎思録』巻之一人の性は多く偏る。聖人に非ざるよりは、免れ難き所なり。性の偏る処は、乃ち過ちの生ずる所なり。故に賢者と雖も、過ち無きこと能はず。苟も自ら修省すること能はざれば、則ち其の言行の過たざる者寡し。且つ衆人の心は、多く壅蔽して偏狭なり。故に学者は多く見多く聞き、問ふことを好み人に取り、過ちを聞きて諫めを納るるを貴ぶ。徒らに己が見を執りて自ら是とするを貴ばず。