呻吟語 / 外篇・聖賢・不夷不惠は君子後身の珍
伯夷見冠不正,望望然去之,何不告之使正?柳下惠見袒裼裸程,而由由與偕,何不告之使衣?故曰:不夷不惠,君子後身之珍也。
新字:伯夷見冠不正,望望然去之,何不告之使正?柳下恵見袒裼裸程,而由由与偕,何不告之使衣?故曰:不夷不恵,君子後身之珍也。
書き下し
伯夷は冠の正しからざるを見れば、望望然として之を去る。何ぞ之に告げて正しからしめざる。柳下惠は袒裼裸程を見て、由由として與に偕にす。何ぞ之に告げて衣せしめざる。故に曰く、夷ならず惠ならざるは、君子後身の珍なり。
現代語訳
伯夷は冠が曲がっているのを見れば、振り返りもせず立ち去りました。どうして注意して正させなかったのでしょうか。柳下恵は肌を脱いで裸でいる者を見ても、平気で一緒にいました。どうして注意して着せなかったのでしょうか。だから、伯夷でもなく柳下恵でもないことが、君子が身を処する上での宝だと言うのです。
解説
潔癖の伯夷と寛容の柳下恵を、同じ一つの欠点で批判します。どちらも相手に注意していない。去るのも受け入れるのも、相手を変える働きをしません。清と和という正反対の徳が、行動しないという一点で同じになる。だから両方でないことが宝だとされる。実に鋭い批評の一段です。清と和という正反対の徳が、行動しない一点で同じになります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
伯夷柳下恵潔癖寛容注意
関連する章句
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『呻吟語』外篇・聖賢・天下人に一個として伊尹は天下の人を看るに一個として是れ憐れむ可からざる無し。伯夷は天下の人を看るに一個として是れ惡む可からざる無し。柳下惠は天下の人を看るに一個として是れ與す可からざる無し。
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『慎思録』巻之六人の禀性同じからず。故に其の気象も亦異なる。気象異なれば則ち見る所も亦同じからず。此れ伯夷と柳下恵と、同じく是れ大賢なりと雖も、其の気象同じからず。故に見る所も亦各偏異なり。蓋し人各長短有り、又偏異有り。賢者と雖も免れざる所なり。然れども其の偏僻を以て、其の人を廃棄すべからざるなり。
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「伯夷は其の君に非ざれば事えず。其の友に非ざれば友とせず。惡人の朝に立たず。惡人と言(ものいう)わず。惡人の朝に立ち、惡人と言うは、朝衣朝冠を以て塗炭に坐するが如し。惡を惡むの心を推すに、鄉人と立ちて、其の冠正しからざれば、望望然として之を去り、將に浼(けがす)されんとするが若く思う。是の故に諸侯其の辭命を善くして至る者有りと雖も、受けざるなり。受けざる者は、是れも亦た就くを屑しとせざるのみ。柳下惠は汙君を羞ぢず、小官を卑しとせず。進んで賢を隱さず、必ず其の道を以てす。遺佚せられて怨みず、阨窮して憫えず。故に曰く、『爾は爾為り、我は我為り。我が側に袒裼裸裎すと雖も、爾焉くんぞ能く我を浼さんや。』故に由由然として之と偕にして自ら失わず。援(ひく)いて之を止むれば止まる。援いて之を止むれば止まる者は、是れ亦た去るを屑しとせざるのみ。」孟子曰く、「伯夷は隘なり。柳下惠は不恭なり。隘と不恭とは、君子由らざるなり。」
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『慎思録』巻之六孟子曰く、伯夷は隘なり、柳下恵は不恭なりと。蓋し賢者以下は、往々禀性偏りて全からず。其の賢なること二子の如きも、亦其の病無きこと能はず。此に長ずと雖も、或いは彼に短なり。中庸の所謂其の次は曲を致す者なり。聖人の陰陽徳を合せ、短長の論ずべき無きに如かず。夫れ伯夷・柳下恵も亦偏性有り。此を以て之を看れば、康節・伊川の如きも、亦同じく是れ賢哲なりと雖も、然り而して偏性無きこと能はず。蓋し康節は伊川の謹厳に如かず、伊川は康節の寛舒に如かず。是れ賢者と雖も、亦各々長処有り短処有ること此くの如し。
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『講孟余話』公孫丑上 第九章伯夷の清、柳下恵の和、各々一偏を得、故に変じて隘となり不恭となる。若し清なるべくして清、和なるべくして和なる時は、孔子の「以て仕ふべくんば則ち仕へ、以て止むべくんば則ち止み、以て久しかるべくんば則ち久しく、以て速かなるべくんば則ち速かなり」と、何ぞ異ならんや。而して人各々資質あり、故に古人を学びて其の性の近き所を得べし。余尤も柳下恵の行を愛す。「由々然として之れと偕にす」とは和なり、「而して自ら失はず」は流れざるなり。和にして已まざれば必ず流俗に同じて汚世に合ふに至る、故に流れざるを以て己れを持す。其の人を待ち物に接するは甚だ寛厚にして、自ら処するは甚だ厳密なる、是れ柳下恵の行なり。人能く此くの如くなれば、何程壊乱の世に処ると雖も、必ず能く志を協へ心を同じくし、世道を維持するの人を得るなり。
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『呻吟語』外篇・聖賢・其の餘は明らかなる所有れば必ず昏き所有り堯・舜・周・孔の道は、九達の衢の如く、通ぜざる所無し。代明の日月の如く、照らさざる所無し。其の餘は明らかなる所有れば、必ず昏き所有り。夷・尹・柳下惠は清・任・和に昏く、佛氏は寂に昏く、老氏は裔に昏く、楊氏は義に昏く、墨氏は仁に昏く、管・商は法に昏し。其の心向かふ所有るなり。譬へば鵑鴿の南を知るがごとし。其の心厭ふ所有るなり。譬へば盍旦の夜を惡むがごとし。豈に純然として一家の人物と成らずや。競に是れ偏氣なり。