慎思録 / 巻之六
仁義者。道之體也。文武者。爲仁義之用。是仁義之所發也。故雖文武其趣不同。要之則理一也。文者仁之發也。愛人和衆之道也。非文不能懷民安衆。武者義之發也。戒人嚴衆之道也。非武不能威敵正罪。故文武並行。則天下和平。而黎民服矣。古之良將。必文武全才。而能安定於萬民矣。澆季之世。文武岐而爲兩途。有文者或無武。有武者多無文。不可爲全才。徒有武而無文。則爲傖父。徒有文而無武。則爲腐儒。雖各有可用之能。非全才也。季世之俗皆如此。爲士人者。所以可務而全之。而不可偏勝也。
新字:仁義者。道之体也。文武者。為仁義之用。是仁義之所発也。故雖文武其趣不同。要之則理一也。文者仁之発也。愛人和衆之道也。非文不能懐民安衆。武者義之発也。戒人厳衆之道也。非武不能威敵正罪。故文武並行。則天下和平。而黎民服矣。古之良将。必文武全才。而能安定於万民矣。澆季之世。文武岐而為両途。有文者或無武。有武者多無文。不可為全才。徒有武而無文。則為傖父。徒有文而無武。則為腐儒。雖各有可用之能。非全才也。季世之俗皆如此。為士人者。所以可務而全之。而不可偏勝也。
書き下し
仁義は道の体なり。文武は仁義の用為り。是れ仁義の発する所なり。故に文武其の趣同じからずと雖も、之を要すれば則ち理は一なり。文は仁の発なり。人を愛し衆を和するの道なり。文に非ざれば民を懐け衆を安んずること能はず。武は義の発なり。人を戒め衆を厳にするの道なり。武に非ざれば敵を威し罪を正すこと能はず。故に文武並び行はるれば、則ち天下和平にして、黎民服す。古の良将は、必ず文武全才にして、能く万民を安定す。澆季の世は、文武岐れて両途と為る。文有る者は或は武無く、武有る者は多く文無し。全才と為すべからず。徒に武有りて文無ければ、則ち傖父と為る。徒に文有りて武無ければ、則ち腐儒と為る。各用ゐるべきの能有りと雖も、全才に非ざるなり。季世の俗は皆此くの如し。士人たる者は、務めて之を全うすべくして、偏勝すべからざる所以なり。
現代語訳
仁義は道の本体です。文と武は仁義の働きで、仁義から発するものです。だから文と武は趣が違っても、要するに理は一つです。文は仁から発するもので、人を愛し衆を和やかにする道です。文がなければ民を懐かせ衆を安らかにすることはできません。武は義から発するもので、人を戒め衆を引き締める道です。武がなければ敵を威圧し罪を正すことはできません。だから文と武がともに行われれば、天下は平和で、民は従います。昔の良将は必ず文武の才を兼ね備えて、万民を安定させました。末世になると文と武は分かれて二つの道となりました。文のある者はときに武がなく、武のある者は多く文がありません。これでは全き才とは言えません。武だけあって文がなければ田舎者となり、文だけあって武がなければ役に立たない儒者となります。それぞれ用いるべき能力はあっても、全き才ではありません。末世の風俗はみなこうです。武士たる者は、努めて両方を全うすべきで、一方に偏ってはならないのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
司馬法・仁本古者(いにしえ)は仁を以て本と為し、義を以てこれを治め、これを治めて正と為す。
-
『武士道』第五章 仁・愛不忍の心・義に過ぐれば固くなる而して又たここに予の、更に此問題に就きて一引証を加ふることを許せ。されば近時独逸皇帝の、コブレンツに於てせる演説の一句を挙げんか。曰く、『神恩によつて王たるものは、之に伴ふ重大なる責任あり。而してひとり、造物主に対して甚大なる責務を有し、人も大臣も国会も、君王をして能く此れより免れしむること能はず』と。仁は温和なる徳なり、母の心なり。端正なる節義、厳厲なる公正を以て男性的なりとせば、仁愛の柔和にして人を服するは、即ち女性的なりと云ふを得べきか。されど仁愛に加ふるに正義を以てせずして、漫に之に流るるは、人の深く戒むべき所にして、伊達政宗の言にも是れあり、『義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる』と。仁は美はしくて又た遍し。
-
『慎思録』巻之一仲虺の誥に曰く、克く寛に克く仁に、信を兆民に彰かにすと。六経の仁信を言ふは、此に始まる。又曰く、義を以て事を制し、礼を以て心を制すと。六経の義礼を言ふは、此に始まる。又曰く、天乃ち王に勇智を錫ふと。六経の智勇を言ふは、此に始まる。湯誥に曰く、惟れ皇いなる上帝、衷を下民に降す。恒の性有るに若ひ、克く厥の猷を綏んずるは、惟れ后なりと。六経の性を言ふは、此に始まる。太甲に曰く、鬼神は常に享くること無し、克く誠なるに享くと。六経の誠を言ふは、此に始まる。
-
『慎思録』巻之二禽獣は己を愛することを知りて、物を愛することを知らず。是れ不仁に由る。故に礼無く義無し。此れ禽獣の道なり。人道は則ち然らず。己を愛し又人を愛す。是れ此れ仁有るに由る。是を以て礼有り義有り。是れ人と禽獣との由りて分かるる所なり。人苟も己に便にして礼無く、己に利ありて義無ければ、則ち禽獣と何ぞ異ならんや。
-
『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、我が云ふ所の木綿のこと、是は斯細なることなれども、汝が心に済まず、それゆゑに返答せざるか。答ふ、是は云ふまでに及ばざることなり。ここを以て返答せず。曰く、其の返答に及ばずとは、如何なることぞ。答ふ、孔子も己の欲せざる所を人に施すこと勿れとのたまふ。我否と思ふことは、人も嫌ふものなり。我より其の木綿を分くるならば、汝に能き方を渡さん。汝より分くるならば、我に能き方を渡すべし。又汝の方へ織りかけを取り、奥の悪しき所を我に渡さば、汝の世話にせらるる故に、その筈なりと思ふ。かやうにさばき置く時は、悉く宜しからん。汝に能き物を渡さば汝は喜び、我は義を以て仁を養ふ。是宜しきにあらずや。
-
『囲炉夜話』第二十七則・伐の字は戈に從ふ伐の字は戈に從ひ、矜の字は矛に從ふ、自ら伐り自ら矜る者は、大いなる戒めと為すべし。 仁の字は人に從ひ、義の字は我に從ふ、仁を講じ義を講ずる者は、必ずしも遠く求めず。