慎思録 / 巻之六
身有淸福。而當樂境者。苟不能享而保之。可謂薄福之人也。朱子答李深卿書曰。夫儒釋正邪之異。未易以口舌爭。但見得分明。則觸事可辨。又答胡寬夫書曰。勿與人辨論釋氏長短。自家未有所見。判斷它不得。况廢却自家合做底緊切工夫。却與人爭一塲閑口舌。有損無益。尤當深戒也。篤信謂。朱子此言。覺最有理。吾所以不敢做儒佛邪正之論也。
新字:身有清福。而当楽境者。苟不能享而保之。可謂薄福之人也。朱子答李深卿書曰。夫儒釈正邪之異。未易以口舌争。但見得分明。則触事可弁。又答胡寛夫書曰。勿与人弁論釈氏長短。自家未有所見。判断它不得。況廃却自家合做底緊切工夫。却与人争一塲閑口舌。有損無益。尤当深戒也。篤信謂。朱子此言。覚最有理。吾所以不敢做儒仏邪正之論也。
書き下し
身に清福有りて、楽境に当たる者、苟も享けて之を保つこと能はずば、薄福の人と謂ふべし。朱子、李深卿に答ふる書に曰く、夫れ儒釈正邪の異は、未だ口舌を以て争ひ易からず。但だ見得て分明なれば、則ち事に触れて弁ずべしと。又胡寛夫に答ふる書に曰く、人と釈氏の長短を弁論すること勿かれ。自家未だ見る所有らざれば、它を判断し得ず。況んや自家の合に做すべき底の緊切の工夫を廃却して、却つて人と一場の閑口舌を争ふをや。損有りて益無し。尤も当に深く戒むべしと。篤信謂ふ、朱子の此の言、最も理有りと覚ゆ。吾の敢へて儒仏邪正の論を做さざる所以なり。
現代語訳
身に清らかな福があって楽しい境遇にいる人が、それを受け止めて保つことができなければ、福の薄い人と言うべきです。朱子は李深卿に答えた手紙で「儒と仏の正邪の違いは、口先で争ってたやすく決まるものではない。ただ見てはっきり分かっていれば、事に触れて見分けられる」と言い、また胡寛夫に答えた手紙で「人と仏教の長所短所を論じ合ってはならない。自分にまだ見るところがなければ、相手を判断することはできない。まして自分がなすべき切実な工夫をやめて、かえって人と一場の無駄な口論を争うのはなおさらだ。損があって益がない。最も深く戒めるべきだ」と言いました。私篤信が思うに、朱子のこの言葉は最も道理があると感じます。私があえて儒仏の正邪の論をしないのはこのためです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之六朱子、春秋繁露を以て是れ董子の作る所にあらずと為す。愚謂へらく、今此の書を見るに、術者の言ふ所に似たる者有り。朱子の言信ずべし。衆人の情、富貴なる者は、多く禄位に迷溺す。故に驕怠して道を行ふの志無く、困窮を恤まず、恭倹の行無く、礼義を捨てて徳行を顧みず。蓋し人情、貴に居れば多く人の賤しきを忘れ、富に居れば多く人の貧しきを忘る。故に飽きて人の饑ゑを知り、温かにして人の寒きを知る者は、蓋し鮮し。富貴に居る者は、大率是くの如し。貧賤にして徳を好む者に若かざるなり。然らば則ち富貴は誠に貧賤に若かず。貧賤何ぞ富貴を羨まんや。
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『慎思録』巻之四時勢の不幸は、巧みに免るること能はず。此の時に方りては、亦た奈何ともすべき無し。唯だ己を修め言を慎み、命に安んじ自ら寛くするの工夫有るのみ。苟も神仏に諂ひ祈り、権家に諛ひ索むれば、守りを失ふと謂ふべし。是れ命を知らざるなり。
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『慎思録』巻之六古語に曰く、清楽は天の慳惜する所、功名爵禄に百倍すと。此れ真儒の言に非ずと雖も、亦理有り。何となれば則ち功名爵禄を得る者は、世世少なからず。唯だ清福の楽を得る者は鮮し。予の如きは固より庸劣なるも、幼より聖賢の書を読み、義理の学に志有りて、老に至るまで未だ休まず。幸ひに天之に年を仮し、且つ屢京師に遊び、諸州を歴観す。書数百部を貯へ、且つ飽煖逸居して出入に僕従有り。是れ清福を享くること多しと謂ふべし。天の我を愛すること誠に厚し。只恨むらくは此の清福を享けて、居然として嘉穀を食み、白日を消し、人に補ひ無きことを。天地の間の一蠹と謂ふべし。真に畏るべきのみ。然らば則ち貧賤にして下に在りと雖も、然れども吾の清福を得るの幸ひ為るや、富貴功名に倍すること遠し。歉を抱くべからず。況んや吾の庸材、其の貧賤なる者は、乃ち分の宜なり。分外豈に願ふべけんや。且つ天地の物を生ずるや、両全すること能はず。是を以て翼有る者は手無く、角有る者は牙無し。花の美なる者は、其の実食ふべからず。実の美なる者は、其の花観るに足らず。然らば則ち既に清福を得れば、則ち貧窮なりと雖も、亦奚ぞ慊らざらんや。鄒浩曰く、人間世の楽しみ、能く読書に易ふる者有らんやと。誠なるかな斯の言や。読書の楽しみは、富貴爵禄に超ゆること信に遠し。仍ほ爵禄を羨むべけんや。
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『慎思録』巻之五大抵後人の朱子を論ずる、其の失二有り。其の一は、朱子を以て信ずるに足らずと為して貶議す。其の二は、朱子を以て聖人と為して加ふべからずとす。朱子を以て信ずるに足らずと為す者は、固より是れ寃枉なり。朱子を以て聖人と為す者も、亦是れ其の好む所に阿るなり。此の二者は、朱子を知らざるの過ちなり。
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『慎思録』巻之五聖人は利口の邦家を覆す者を悪む。且つ言ふ、佞人は殆ふし、と。聖人の言畏るべきかな。古来毀誉善悪を乱す。昧き者は察せず。故に偏聴は姦を生ず。言を聴く者審らかにせざるべけんや。禠を祈り災を禳ふの道は、其の私に克ち其の慾を窒ぐより先なるは莫し。是れ其の工夫内に在り。其の民を愛し博く施して衆を済ふより大なるは莫し。是れ行ふ所外に在り。蓋し私は天の悪む所、民は天の愛する所なり。故に内に其の私慾を克ち去れば、則ち天譴を免る。外に其の民人を愛養すれば、則ち天に合ふ。苟も此くの如くなること能はずんば、祭に諂ひ祠に淫し、鬼神に佞媚して、禱請百計以て勤めと為すと雖も、然れども天譴免れ難く、天心喜ばず。何の福か之れ有らん。聖人言ふ、罪を天に獲れば禱る所無し、と。詩に曰く、永く言に命に配し、自ら多福を求む、と。豈に信ならずや。是れ遠く諸を異域に考へ、古昔に徴するを待たず。唯試みに諸を近古今世の人の其の私を行ひ其の民を虐げ、偏に神に禱り仏に佞して僥倖する者の、福無きの報応の験歴歴たるを視ば、而ち知るべきのみ。此の理甚だ昭晰にして、知者を待たずして明らかなり。宜しく之を信じて昏迷せざるべし。然り而して衆人迷ひて覚らざる者、滔滔として皆是れなり。何ぞや。豈に鬼神の理幽深にして暁り難く、禍福の説欲多くして惑ひ易きに因るに非ずや。
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『慎思録』巻之五老荘の説は、固より聖人の道と相懸絶す。之を論ずること厳ならざるべからず。然れども太だ厳なるに傷めば、則ち平直にして其の病に中ること能はず。宋儒の老荘を辨ずる、往往此の病有り。其の謗る所、彼の書の本意と相合はざる者も亦多し。恐らくは寃枉たるを免れず。学者の心服せざる所以なり。然れども程朱の老荘を辨ずる、亦甚だ厳なる者は、是れ恐らくは深意有らん。学者の宜しく思ふべき所なり。