慎思録 / 巻之五
大抵後人之論朱子。其失有二焉。其一。以朱子爲不足信。而貶議焉。其二。以朱子爲聖人而不可加焉。以朱子爲不足信者。固是寃枉也。以朱子爲聖人者。亦是阿其所好也。此二者。不知朱子之過也。
新字:大抵後人之論朱子。其失有二焉。其一。以朱子為不足信。而貶議焉。其二。以朱子為聖人而不可加焉。以朱子為不足信者。固是冤枉也。以朱子為聖人者。亦是阿其所好也。此二者。不知朱子之過也。
書き下し
大抵後人の朱子を論ずる、其の失二有り。其の一は、朱子を以て信ずるに足らずと為して貶議す。其の二は、朱子を以て聖人と為して加ふべからずとす。朱子を以て信ずるに足らずと為す者は、固より是れ寃枉なり。朱子を以て聖人と為す者も、亦是れ其の好む所に阿るなり。此の二者は、朱子を知らざるの過ちなり。
現代語訳
おおよそ後世の人が朱子を論じるとき、その誤りは二つあります。一つは、朱子を信じるに足りないとしてけなすこと。もう一つは、朱子を聖人として、これ以上付け加えることはできないとすることです。朱子を信じるに足りないとする者は、もちろん無実の罪を着せるものです。朱子を聖人とする者も、自分の好むものにへつらっているのです。この二つは、どちらも朱子を本当に知らないことから来る誤りです。
解説
益軒は生涯朱子学を奉じましたが、晩年には朱子の説への疑問をまとめた『大疑録』も著しました。この条は、そうした益軒の朱子への距離のとり方をよく示しています。当時は古学派の伊藤仁斎らが朱子学を批判する一方、朱子を絶対視する学者もいました。益軒はどちらも朱子を正しく知らない態度だと言います。尊敬する師や権威ある理論に向き合うとき、全否定も盲信もせず、よい所を受け継ぎ疑問は疑問として検討する。そうした成熟した学び方を示す一条です。
この章句が説くこと
朱子学問権威疑偏り
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