慎思録 / 巻之六
人迷異學者多。何耶。曰。只是因燭理不明。不明者。因學之粗而不精耳。學之而致知。則迷之不得。且有偏性之人。一迷所聞見。則成僻。而終身不悟。可惜哉。
新字:人迷異学者多。何耶。曰。只是因燭理不明。不明者。因学之粗而不精耳。学之而致知。則迷之不得。且有偏性之人。一迷所聞見。則成僻。而終身不悟。可惜哉。
書き下し
人の異学に迷ふ者多きは、何ぞや。曰く、只是れ理を燭すこと明らかならざるに因る。明らかならざる者は、学の粗にして精しからざるに因るのみ。之を学びて知を致さば、則ち之に迷ふことを得ず。且つ偏性有るの人は、一たび聞見する所に迷へば、則ち僻を成して、終身悟らず。惜しいかな。
現代語訳
人が異学に迷うことが多いのはなぜでしょうか。答えます。ただ道理を照らし見ることが明らかでないからです。明らかでないのは、学問が粗く精密でないからにすぎません。学んで知を極めれば、迷うことはありえません。また偏った性質の人は、一度聞いたり見たりしたことに迷うと、それが癖となって一生悟りません。惜しいことです。
解説
人が異端の学説に迷うのは、学問が粗く道理を見る目が明らかでないからだと説く条です。「理を燭す」は道理を灯火で照らすように見ること、「知を致す」は『大学』の致知で、朱子学では物事の理を窮めて知を極めることを言います。益軒は陽明学や仏教・老荘を異学と見ましたが、その原因を相手ではなく学ぶ側の粗さに求めています。怪しい情報や極端な主張に飲み込まれないためには、基礎を丁寧に学び、自分で考える力を養うことが一番の備えです。
この章句が説くこと
致知理学問異学偏り
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