慎思録 / 巻之六
程子曰。大凡長育人材。且須緩緩。愚謂。是才養不才。中養不中。乃敷五敎在寬之意。敎人須從容不迫。不可惡其不肖棄之。苟如此則久而有效。葢人各有偏性。不可俄變。順以漸而浸變也。
新字:程子曰。大凡長育人材。且須緩緩。愚謂。是才養不才。中養不中。乃敷五教在寛之意。教人須従容不迫。不可悪其不肖棄之。苟如此則久而有効。葢人各有偏性。不可俄変。順以漸而浸変也。
書き下し
程子曰く、大凡人材を長育するには、且く須らく緩緩たるべしと。愚謂へらく、是れ才は不才を養ひ、中は不中を養ひ、乃ち五教を敷くこと寛に在るの意なり。人を教ふるには須らく従容として迫らざるべし。其の不肖を悪みて之を棄つべからず。苟も此くの如くなれば則ち久しくして効有り。蓋し人各偏性有りて、俄かに変ずべからず。順ひて漸を以てして浸く変ずるなり。
現代語訳
程子は「おおよそ人材を育てるには、ひとまずゆっくりと構えるべきだ」と言いました。私が思うに、これは『孟子』にいう「才ある者が才なき者を養い、中庸の者がそうでない者を養う」ことであり、『書経』にいう「五つの教えを施すのは寛やかにする」という意味です。人を教えるには、ゆったりとして急き立ててはいけません。その未熟さを嫌って見捨ててはいけません。このようにすれば、時がたって効果が出ます。思うに人にはそれぞれ偏った性質があって、急に変えることはできません。それに従って少しずつ、しだいに変わっていくのです。
解説
人材は急がずゆっくり育てるべきだという程子の言葉を、古典の裏付けで補強した条です。「中は不中を養ひ、才は不才を養ふ」は『孟子』離婁下、「五教を敷くこと寛に在り」は『書経』舜典の語です。益軒は子どもの教育を論じた『和俗童子訓』でも、急がず順を追って教えることを説きました。人の癖はすぐには変わりません。部下や子どもの成長が遅いと苛立ったときこそ、見捨てずに時間をかける覚悟が、最後に大きな実りをもたらします。
この章句が説くこと
教え育成寛忍耐程子
関連する章句
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『慎思録』巻之三大凡人を戒め人を教ふるの道は、宜しく漸を以てして寛なるべし。然れども倦怠すべからず。今人の人を教ふるや、急迫ならざれば則ち倦怠す。此の二者は、教を為すの道に非ず。孟子曰く、中や不中を養ひ、才や不才を養ふ、と。養ふとは涵育薫陶の功間断無くして、其の自ら化するを俟つを謂ふなり。是の如くなれば則ち急迫倦怠の二者の過失無し。所謂敬みて五教を敷くは寛に在り、是れなり。敬とは倦怠せざるなり。寛に在りとは急迫せざるなり。是れ人を教ふるの節度なり。
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『慎思録』巻之二人の禀性や各々異なり。一律を以て之を同じくすべからず。故に曰く、物の斉しからざるは、物の情なり、と。子弟卑幼の輩と雖も、其の趣の己と同じからざるを以て、太だ其の過失を督責すること勿かれ。蓋し人を教育するの法は急迫すべからず。急迫なれば則ち順はず。或いは忿戻怨叛に至る。此れ才の不才を養ひ、中の不中を養ふの道に非ず。故に曰く、敬んで五教を敷くは寛に在り、と。然れども寛は還た怠緩の謂ひに非ざるなり。
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『慎思録』巻之一衆人の不善を為して、将に禍有らんとするや、其の非を悔い其の過ちを改むることを知らず、特に神に禱り仏に媚ぶるを負みて、罪を遠ざけんと欲す。禍を免るること難し。此れ禍福報応の理に暗きに因るなり。人を教ふるの道は、子弟卑幼の輩の愚不肖と雖も、忿厲激怒するは宜しからず。唯厳粛従容として、丁寧に告げ戒め、循循として誘引す。是れ能く人材を養成する所以なり。故に曰く、中や不中を養ひ、才や不才を養ふと。詩に曰く、載ち色し載ち笑ふ、怒るに匪ず伊れ教ふと。是れ乃ち人を教ふるの道、宜しく此くの如くなるべし。若し忿怒罵詈すれば、則ち人も亦払戻扞格して、教へを容れず。人材を教育すること能はざる所以なり。
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『慎思録』巻之六子弟の輩、不肖にして不孝不弟なりと雖も、其の頑を忿疾すること勿れ。須らく従容として時に之を教諭すべし。迫切に譴責すべからず。此くの如くなれば則ち父子兄弟、其の恩を傷らず。泮水の詩に曰く、載ち色載ち笑ひ、怒るに匪ず伊れ教ふと。言ふこころは顔色を和らげて笑談を為し、怒責せずして、従容として之を教誨するなり。是れ中は不中を養ひ、才は不才を養ふの道なり。且つ自ら譴責せずして、他人をして教戒せしむべし。此れ古者子を易へて之を教ふるの意なり。然り而して子弟其の教に順従せずんば、則ち巨ぞ之を奈何せん。宜しく容忍すべく、忿怒すべからず。彼其の性素より不肖なるに、我之を譴責すること甚だしければ、則ち却つて益々払戻す。是れ父子相夷ふの道なり。古諺に曰く、不孝は父母を恨み、欠債は財主を怨むと。是れ小人の常情なり。堯舜の聖にして貴きこと天子為りと雖も、不肖の子有りて、奈何ともすべからず。是れ亦天命此くの如きのみ。况や常人をや。憤怒憂苦を做すべからざるなり。天命に安んじて可なり。
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『慎思録』巻之四善を為す者は、須らく其の道を馴致すべし。蓋し積習して已まざれば、則ち必ず其の功を成して、自然の如し。然らば則ち善を為す者は、馴致の功貴ぶべきかな。悪を為すも亦た馴致するのみ。宋人の雑志に載す、都下の小児纔かに三歳にして、曲拍皆節に中る、と。篤信謂ふ、吾が戚里の小児、生まれて四歳、亦た能く節を拍ちて爽はず。其の天性此の如き者有り。又節を知らざる者は、長大にして之を教ふと雖も、然れども拍ちて節に中ること能はず。人性の技芸に於ける、能有り不能有ること此の如し。夫れ人を教ふるの道、倫理綱常の如きは、固より衆人をして之に由らしめざるべからず。其の他の材芸の如きは、人各能有り不能有り。須らく其の才性の能くする所に循ひて之を教ふべし。庶はくは其の材を達すること有らん。其の能くせざる所を強ふべからず。労すと雖も功無し。後世の人に任ずるや、其の能否を察すること能はず、其の能くせざる所を強ひて、其の職を以て責む。過ち無からんと欲すと雖も、得べからず。而して聖人の才を用ふるや、賢哲稷契皐陶伯益垂夔龍の如き、亦た各其の長ずる所に因りて、其の職を授け、彼をして終身其の一官を守りて、其の功を成さしむ。此れ庶績咸熙まる所以なり。今人を教へ材を成さしむるの道も、亦た当に此の如くなるべし。
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『慎思録』巻之四教戒規諫の道は、迫切なるべからず。迫切なれば、則ち人をして忿恚せしめて、服従すること能はず。子弟を教ふるが如きも、亦た須らく優游して以て之を開導すべし。頑に忿疾すること勿かれ。是れ敬んで五教を敷くこと寛に在るの意なり。蓋し人心は和悦すれば則ち従ひ、忿恚すれば則ち違ふ。故に泮水の詩に曰く、載ち色し載ち笑ひ、怒るに匪ず伊れ教ふ、と。程子も亦た曰く、大率言語は須らく是れ含蓄して余味有るべし、と。薛敬軒曰く、辞婉なれば必ず能く人を動かす、と。此の言皆旨有るかな。