弁名 / 理氣人欲
故雖不學之人。苟能思。則不爲非理之事。若夫非禮之禮。非義之義。則非君子不能辨之者。不學故也。世之爲宋儒者。猶且不以爲然。必將曰。禮義者誠聖人所立也。然苟不知聖人所以立禮義之理。而徒守其所謂禮義者。則非禮之禮非義之義所由生焉。是宋儒務究理之意云爾。殊不知是其欲勝聖人而上之者。亦不自揣之甚者焉。何也。是不循聖人之敎。而先欲獲聖人之心者也。天下豈有之哉。
新字:故雖不学之人。苟能思。則不為非理之事。若夫非礼之礼。非義之義。則非君子不能弁之者。不学故也。世之為宋儒者。猶且不以為然。必将曰。礼義者誠聖人所立也。然苟不知聖人所以立礼義之理。而徒守其所謂礼義者。則非礼之礼非義之義所由生焉。是宋儒務究理之意云爾。殊不知是其欲勝聖人而上之者。亦不自揣之甚者焉。何也。是不循聖人之教。而先欲獲聖人之心者也。天下豈有之哉。
書き下し
故に不学の人と雖も、苟も能く思へば、則ち非理の事を為さず。夫の非礼の礼、非義の義の若きは、則ち君子に非ずんば之を弁ずる能はざる者なり。学ばざるが故なり。世の宋儒為る者、猶ほ且つ以て然りと為さず、必ず将に曰はんとす、「礼義は誠に聖人の立つる所なり。然れども苟も聖人の礼義を立つる所以の理を知らずして、徒らに其の所謂礼義なる者を守らば、則ち非礼の礼、非義の義の由りて生ずる所なり」と。是れ宋儒の務めて理を究むるの意しか云ふ。殊に知らず、是れ其の聖人に勝ちて之に上らんと欲する者、亦た自ら揣らざるの甚だしき者なるを。何ぞや。是れ聖人の教に循はずして、先づ聖人の心を獲んと欲する者なり。天下豈に之れ有らんや。
現代語訳
だから学問のない人でも、よく考えさえすれば、理に外れたことはしない。しかし、礼に似て礼でないもの、義に似て義でないものは、君子でなければ見分けられない。学んでいないからである。世の宋儒の徒は、なおもそれを認めず、きっとこう言うだろう。「礼義は確かに聖人が立てたものだ。しかし聖人が礼義を立てた理由である理を知らずに、ただいわゆる礼義を守っているだけなら、礼に似て礼でないもの、義に似て義でないものが生まれてくる」と。これが宋儒が理を究めようと努める意図である。ところが、これが聖人に勝ってその上に立とうとするもので、身の程を知らないことの甚だしいものだとは、まったく気づいていない。なぜか。聖人の教えに従わずに、先に聖人の心をつかもうとするものだからである。天下にそんなことがあろうか。
解説
この章句が説くこと
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『弁名』理氣人欲故に理苟も之を究めざれば、則ち能く得て一にする莫し。然れども天下の理、豈に究め尽くすべけんや。惟だ聖人のみ能く我の性を尽くし、能く人の性を尽くし、能く物の性を尽くして、天地と其の徳を合す。故に惟だ聖人のみ能く理を究めて之が極を立つる有り。礼と義と是れなり。故に説卦の所謂理を究むとは、聖人の事にして、凡人の能はざる所なり。故に先王孔子の道は、義を言ひて理を言はず。是れ豈に理を廃せんや。苟も能く先王の義を執りて以て其の理を推せば、則ち見る所定準有りて理得るが故なり。理は人皆見る所、故に之を言ふを待たざるなり。老荘の徒盛んに理を言ふは、先王の道を廃するが故なり。自然を貴ぶが故なり。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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『弁名』義又裁割決断を以て義と為すが如きも、亦た先王の義を執りて此を以て裁割決断するのみ。苟も先王の義を知らざれば、則ち猶ほ空手にて物を裁つがごとし。安んぞ之を能くせんや。又人多く義理を以て並べ言ふ。程子の「物に在るを理と為し、物を処するを義と為す」と曰ふが如き、是れなり。是れも亦た義を知らざる者の言なり。仮如へば日に行くこと百里なるべくして、二百里なるべからず。是れ理なり。必ず其の二百里を求む、是れ非理なり。一日にして百里、二日にして二百里、是れ之を理に合ふと謂ふのみ。未だ之を義に合ふと謂ふを得ず。猶ほ之れ百里を行くがごとし。諸侯の天子に朝する、日を見て行き、日に逮びて舎奠す。大夫の使する、日を見て行き、日に逮びて舎す。星を見て行く者は、唯だ罪人と父母の喪に奔る者とのみ。是れ所謂礼なり。父母の邦を去るに、「遅遅として吾行く」。豈に日の力を窮めんや。是れ所謂義なり。故に理は学ばずと雖も知るべし。而して礼と義との若きは、君子に非ざれば則ち之を知ること能はず。故に人の非理の事を為さざるは、未だ以て君子と為すに足らず。唯だ非礼と非義とを為さず、然る後以て君子と為すべし。故に義理を以て並べ言ふ者は、義を知らざる者の言なり。
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『弁名』理氣人欲夫れ道は聖人の立つる所、豈に道を見るを以て言ふを容れんや。又た豈に老氏と対言するを容れんや。夫れ道は民を安んずる所以なり。又た豈に生生化化を以て言ふを容れんや。理の玉に従ひ里に従ふは、亦た倉頡字を制する時、且く此を以て記憶に便するのみ。豈に泥むを容れんや。且つ道も亦た諸を道路に本づく。豈に死活有らんや。祇だ道は之を行ふを主とし、理は之を見るを主とす。老荘及び宋儒は皆其の見る所を主とす。故に喜んで理を言ふのみ。若し死活を以て説を為さば、則ち老荘も亦た道徳を言ふ、其れ之を何と謂はん。之を要するに理豈に廃するを容れんや。苟も聖人の教に遵ひ、礼義を以て之が極と為せば、則ち理豈に以て病と為すに足らんや。仁斎先生は羹に懲りて韲を吹くと謂ふべきのみ。学者諸を思へ。
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『慎思録』巻之三君に忠なるべきの理有り、父に孝なるべきの理有り、子に慈なるべきの理有り。此れ則ち物に在るの理にして、吾の之に孝し之に忠し之に慈する者は、此れ我に在るの理なり。此れ物我一理なりと雖も、然れども亦謾りに混同して、只一理と曰はば、則ち恐らくは一本万殊物我体用の処に於て、猶ほ未だ瑩らかならざる所有らん。程子曰く、物に在るを理と為し、物に処するを義と為す、と。此れ物に在ると我に在るとの異なり。然りと雖も物に在るの理と、我に在るの理とは、通徹して隔て無し。我に在るの理も、亦物に在るの理に合へば、則ち豈に内外彼我の別有らんや。理を以て徧く物に在りと為すは、是れ告子の義外の説なり。理を以て専ら心に在りと為すは、是れ陸子の物を遺るの学なり。謾りに只一理と曰ふも、亦冥然として明らかならず、乱雑にして章無し。只物我を以て理一分殊と為して、相体用を為すと説く者、恐らくは之を得たりと為さん。
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『慎思録』巻之一物に在るを理と為し、物に処するを義と為す。之を飢人に譬ふれば、食を欲するの理は彼に在り、食を与ふるの宜しきは我に在り。父の如きは、宜しく愛敬すべきの理は彼に在り、当に愛敬すべきの義は我に在り。是れ理義の弁なり。然る所以の者は理なり、当に然るべき所の者は義なり。亦是れ此の意なり。
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