慎思録 / 巻之四
敎戒規諫之道。不可迫切。迫切。則令人忿恚。而不能服從。如敎子弟。亦須優游以開導之。勿怒疾于頑。是敬敷五敎在寬之意。葢人心和悅則從。忿恚則違。故泮水詩曰。載色載笑。匪怒伊敎。程子亦曰。大率言語須是含蓄而有餘味。薛敬軒曰。辭婉必能動人。此言皆有旨哉。
新字:教戒規諫之道。不可迫切。迫切。則令人忿恚。而不能服従。如教子弟。亦須優游以開導之。勿怒疾于頑。是敬敷五教在寛之意。葢人心和悦則従。忿恚則違。故泮水詩曰。載色載笑。匪怒伊教。程子亦曰。大率言語須是含蓄而有余味。薛敬軒曰。辞婉必能動人。此言皆有旨哉。
書き下し
教戒規諫の道は、迫切なるべからず。迫切なれば、則ち人をして忿恚せしめて、服従すること能はず。子弟を教ふるが如きも、亦た須らく優游して以て之を開導すべし。頑に忿疾すること勿かれ。是れ敬んで五教を敷くこと寛に在るの意なり。蓋し人心は和悦すれば則ち従ひ、忿恚すれば則ち違ふ。故に泮水の詩に曰く、載ち色し載ち笑ひ、怒るに匪ず伊れ教ふ、と。程子も亦た曰く、大率言語は須らく是れ含蓄して余味有るべし、と。薛敬軒曰く、辞婉なれば必ず能く人を動かす、と。此の言皆旨有るかな。
現代語訳
教え戒め、正し諫める道は、せき立ててはいけません。せき立てれば、人を怒らせて従わせることができません。子弟を教えるときも、ゆったりと導いて心を開かせるべきです。頑なな者に怒り憎んではいけません。これが「つつしんで五つの教えを広めるのは寛やかさにある」という意味です。人の心は和やかで喜ばしければ従い、怒れば背きます。ですから『詩経』泮水の詩に「顔を和らげ笑みを浮かべ、怒るのではなく教える」とあります。程子もまた「おおむね言葉は含みがあって余韻があるべきだ」と言い、薛瑄は「言葉が穏やかであれば必ず人を動かす」と言いました。これらの言葉はみな深い意味があります。
解説
人を教え諫めるときの心得を説いた条です。迫るような言い方は相手を怒らせ、かえって従わせられないと益軒は言います。『書経』君陳篇の「頑に忿疾すること無かれ」、舜典の「敬んで五教を敷くこと寛に在り」、『詩経』魯頌泮水の「載色載笑、匪怒伊教」を引き、程子や明の薛瑄の言葉も添えています。『和俗童子訓』でも子を叱りすぎるなと説いた益軒らしい教えです。部下や子どもに注意するとき、正しさより伝わり方を考え、穏やかな言葉で導くことの大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
教諫言寛容言葉指導
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