慎思録 / 巻之六
陶淵明有高志達識。於聖學不能純一。然於吾道。亦未可爲全無所見無所得。與六朝之間士流大不同。其高潔自得。可謂超世離俗也。如謂聊乘化以歸盡。樂夫天命復奚疑。又曰朝與仁義生。夕死復何求。此言其志者。可爲實語也。葢於死生貧富之間。頗知安命而自樂者也。古人稱之千歳之人。不亦宜乎。
新字:陶淵明有高志達識。於聖学不能純一。然於吾道。亦未可為全無所見無所得。与六朝之間士流大不同。其高潔自得。可謂超世離俗也。如謂聊乗化以帰尽。楽夫天命復奚疑。又曰朝与仁義生。夕死復何求。此言其志者。可為実語也。葢於死生貧富之間。頗知安命而自楽者也。古人称之千歳之人。不亦宜乎。
書き下し
陶淵明は高志達識有り。聖学に於いては純一なること能はず。然れども吾が道に於いても、亦未だ全く見る所無く得る所無しと為すべからず。六朝の間の士流と大いに同じからず。其の高潔自得、世を超え俗を離ると謂ふべし。聊か化に乗じて以て尽くるに帰し、夫の天命を楽しみて復た奚をか疑はんと謂ふが如き、又朝に仁義と生き、夕に死すとも復た何をか求めんと曰ふ。此れ其の志を言ふ者、実語と為すべし。蓋し死生貧富の間に於いて、頗る命に安んじて自ら楽しむことを知る者なり。古人之を千歳の人と称す。亦宜ならずや。
現代語訳
陶淵明は高い志と通達した見識を持っていました。聖人の学については純粋に一筋というわけにはいきませんでした。しかし、わが儒の道についても、まったく見るところも得るところもなかったとは言えません。六朝時代の士人たちとは大いに違います。その高潔さと自ら満ち足りたさまは、世を超え俗を離れたと言えます。「しばらく自然の変化に乗って尽きるところに帰り、天命を楽しんでまた何を疑おうか」と言い、また「朝に仁義とともに生きれば、夕べに死んでもまた何を求めよう」と言いました。これはその志を語った言葉で、真実の言葉とすべきです。思うに彼は、死生や貧富の間にあって、よく天命に安んじて自ら楽しむことを知っていた人です。古人が彼を「千年に一人の人」と称えたのも、もっともではありませんか。
解説
この章句が説くこと
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