師導古典を学びたいすべての人に

慎思録 / 巻之六

未發之時。寂然之中。心性未感。善惡未顯。無形象之可見。未見有過不及之差。故操之之道在戒愼恐懼。而欲平易。不可矜持太過而助長。已發之時。感通之際。情意既動。善惡方著。其過不及之差。有迹而易見。故須要愼其所獨知。而存善去惡。是以帝舜說人心道心精一執中。是就已發之時。情意既著。有迹而易見。有形而易執者。而立言。葢已發。而無過不及之差。則靜而存者。亦自無偏倚之可言。故專就動處而說中。未說及未發之中而足矣。是聖人所以不先天而開物也。分未發已發而說中和之德者。自子思而始矣。羅整菴以道心爲未發之中者。吾未知其是也。

新字:未発之時。寂然之中。心性未感。善悪未顕。無形象之可見。未見有過不及之差。故操之之道在戒慎恐懼。而欲平易。不可矜持太過而助長。已発之時。感通之際。情意既動。善悪方著。其過不及之差。有迹而易見。故須要慎其所独知。而存善去悪。是以帝舜説人心道心精一執中。是就已発之時。情意既著。有迹而易見。有形而易執者。而立言。葢已発。而無過不及之差。則静而存者。亦自無偏倚之可言。故専就動処而説中。未説及未発之中而足矣。是聖人所以不先天而開物也。分未発已発而説中和之徳者。自子思而始矣。羅整菴以道心為未発之中者。吾未知其是也。

書き下し

未発の時、寂然の中、心性未だ感ぜず、善悪未だ顕れず、形象の見るべき無く、未だ過不及の差有るを見ず。故に之を操るの道は戒慎恐懼に在りて、平易ならんことを欲す。矜持太だ過ぎて助長すべからず。已発の時、感通の際、情意既に動き、善悪方に著る。其の過不及の差、迹有りて見易し。故に須らく其の独り知る所を慎みて、善を存し悪を去ることを要すべし。是を以て帝舜の人心道心精一執中を説くは、是れ已発の時、情意既に著れ、迹有りて見易く、形有りて執り易き者に就きて言を立つ。蓋し已発にして過不及の差無くば、則ち静にして存する者も、亦自ら偏倚の言ふべき無し。故に専ら動く処に就きて中を説き、未だ未発の中に説き及ばずして足れり。是れ聖人の天に先だちて物を開かざる所以なり。未発已発を分かちて中和の徳を説く者は、子思より始まれり。羅整菴の道心を以て未発の中と為す者は、吾未だ其の是なるを知らざるなり。

現代語訳

まだ感情が発していないとき、静まりかえった中では、心も性もまだ物に感じておらず、善悪もまだ現れず、目に見える形もなく、行き過ぎや不足の差も見えません。だからこれを保つ方法は、戒め慎み恐れ懼れることにあり、平らかで自然であることを求めます。気負いすぎて無理に助長してはいけません。すでに発したとき、物に感じて通じるときには、感情や意志がもう動いていて、善悪がまさに現れています。行き過ぎや不足の差は痕跡があって見やすいのです。だから自分だけが知っているところを慎んで、善を保ち悪を去らなければなりません。それゆえ帝舜が「人心・道心・精一・執中」を説いたのは、すでに発したとき、感情や意志がすでに現れて、痕跡があって見やすく、形があって捉えやすいところに即して言葉を立てたのです。思うに、発したときに行き過ぎや不足がなければ、静かに保たれているものにも偏りなど言いようがありません。だから専ら動くところに即して中を説き、未発の中にまで説き及ばなくても足りたのです。これが聖人が天に先立って物事を開かなかったゆえんです。未発と已発を分けて中和の徳を説いたのは子思から始まりました。羅整菴が道心を未発の中としたのは、私にはそれが正しいとは思えません。

解説

『中庸』第一章の未発・已発と中和の説、そして『書経』大禹謨の「人心惟れ危く、道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れ」の関係を論じた条です。益軒は、舜の言葉は感情が発した後の見えやすい場面について語ったものだと読み、未発の中を説いたのは子思が初めだとします。明の羅欽順(整菴)が道心を未発の中とした説には従いません。心の静かなときは気負わずに慎み、動いたときは独り知るところを慎む。この区別は日々の心の手入れにも役立ちます。

この章句が説くこと

慎独未発已発中庸

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる