慎思録 / 巻之六
人性各有所好惡焉。故於人也。各有所愛憎。猶飮食五味之好惡。隨人各有異。且如藥物之有相惡相反亦然。是人物之性。自然如此。所以人生有遇不遇也。雖吾之子弟孫姪。亦有愛憎之偏。况於臣僕朋友之間乎。此之其所愛惡而辟焉也。是以或千里通交。或日接膝而不相知。所謂白頭如新。傾蓋如故。是也。豈翅於今人如此而巳耶。抑於古人亦然。故於古人之書。亦各有所愛惡。如荀子非子思孟子。宋李泰伯非孟子。歐陽子不喜杜詩。東坡不喜史記。陸象山不喜漢文帝有若伊川。且薛敬軒之過尊許魯齋之類。猶不鮮矣。雖豪傑之所作遇後世之名士。尙有所不遇合如此。然則待後世子雲之言。亦迂乎哉。今人所述作。今人亦有所好有所惡。其相對接時亦然。是皆好惡之性各所異。物之不齊。物之情也。其遇與不遇者。命之所定。自然之理。所以不可爲怨尤也。
新字:人性各有所好悪焉。故於人也。各有所愛憎。猶飲食五味之好悪。随人各有異。且如薬物之有相悪相反亦然。是人物之性。自然如此。所以人生有遇不遇也。雖吾之子弟孫姪。亦有愛憎之偏。況於臣僕朋友之間乎。此之其所愛悪而辟焉也。是以或千里通交。或日接膝而不相知。所謂白頭如新。傾蓋如故。是也。豈翅於今人如此而巳耶。抑於古人亦然。故於古人之書。亦各有所愛悪。如荀子非子思孟子。宋李泰伯非孟子。欧陽子不喜杜詩。東坡不喜史記。陸象山不喜漢文帝有若伊川。且薛敬軒之過尊許魯斎之類。猶不鮮矣。雖豪傑之所作遇後世之名士。尚有所不遇合如此。然則待後世子雲之言。亦迂乎哉。今人所述作。今人亦有所好有所悪。其相対接時亦然。是皆好悪之性各所異。物之不斉。物之情也。其遇与不遇者。命之所定。自然之理。所以不可為怨尤也。
書き下し
人の性は各好悪する所有り。故に人に於けるや、各愛憎する所有り。猶ほ飲食五味の好悪、人に随ひて各異なる有るがごとし。且つ薬物の相悪相反有るが如きも亦然り。是れ人物の性、自然に此くの如し。人生に遇不遇有る所以なり。吾が子弟孫姪と雖も、亦愛憎の偏り有り。況んや臣僕朋友の間に於いてをや。此れ之を其の愛悪する所に辟するなり。是を以て或は千里にして交はりを通じ、或は日に膝を接して相知らず。所謂白頭も新しきが如く、傾蓋も故きが如しとは是れなり。豈に翅だ今人に於いて此くの如きのみならんや。抑も古人に於いても亦然り。故に古人の書に於いても、亦各愛悪する所有り。荀子の子思・孟子を非とし、宋の李泰伯の孟子を非とし、欧陽子の杜詩を喜ばず、東坡の史記を喜ばず、陸象山の漢文帝・有若・伊川を喜ばず、且つ薛敬軒の過ぎて許魯斎を尊ぶの類の如き、猶ほ鮮からず。豪傑の作る所、後世の名士に遇ふと雖も、尚ほ遇合せざる所有ること此くの如し。然らば則ち後世の子雲を待つの言も、亦迂ならんか。今人の述作する所も、今人亦好む所有り悪む所有り。其の相対接する時も亦然り。是れ皆好悪の性各異なる所なり。物の斉しからざるは物の情なり。其の遇と不遇とは、命の定むる所、自然の理なり。怨尤と為すべからざる所以なり。
現代語訳
人の性質にはそれぞれ好き嫌いがあります。だから人に対してもそれぞれ愛憎があります。飲食の五味の好き嫌いが人によって違うようなものです。また薬物に互いに合わないもの、打ち消し合うものがあるのも同じです。人や物の性質は自然にこのようであり、これが人生に巡り合わせの良し悪しがある理由です。自分の子弟や孫、甥でさえ愛憎の偏りがあります。まして家来や友人の間ではなおさらです。これが『大学』にいう「愛し憎むところに偏る」ということです。だから千里離れていても交わりを結ぶこともあれば、毎日膝を突き合わせていても互いに分かり合えないこともあります。いわゆる「白髪になるまで付き合っても初対面のようで、道で車の蓋を傾けて話しただけで旧知のようだ」というのがこれです。これは今の人だけのことでしょうか。昔の人でも同じです。だから昔の人の書物に対しても、それぞれ好き嫌いがあります。荀子が子思・孟子を非難し、宋の李泰伯が孟子を非難し、欧陽脩が杜甫の詩を好まず、蘇東坡が『史記』を好まず、陸象山が漢の文帝や有若、伊川を好まず、また薛敬軒が許魯斎を尊びすぎたような例は少なくありません。豪傑の書いたものが後世の名士に出会っても、なお合わないことがこのようにあるのです。そうだとすれば、後世の揚子雲を待つという言葉も、回りくどいのではないでしょうか。今の人の書いたものにも、今の人に好む者と嫌う者があります。互いに向き合うときもまた同じです。これはみな好き嫌いの性質がそれぞれ違うからです。物がそろわないのが物の実情です。巡り合わせの良し悪しは天命の定めるところで、自然の理です。だから人を怨んだり天をとがめたりしてはならないのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之五人の稟性各異なる。故に其の好悪も亦同じからず。是を以て世に処り人に接するや、我を好む者有り、我を悪む者有り、我を誉むる者有り、我を毀る者有り。我の悪む所にして人の之を好む者有り、我の好む所にして人の之を悪む者有り。是れ乃ち人の遇と不遇と有る所以にして、君上の愛悪と臣下の栄辱と、皆此に繋る所なり。吾の人に於ける愛悪も、亦然り。其の偏僻なる者有らば、省察して之を正さざるべからず。
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『慎思録』巻之五人各賢愚有り、曲直有り、情偽有り。人心其の美悪を匿して、測り知るべからず。吾に真情有るが如きも、他人は吾が心曲を知ること能はず。豈に能く心を傾けて相信ぜんや。李太白の詩に曰く、他人方寸の間、山海幾千里、と。亦此の意のみ。人平日常に膝を交へて晤語する者有り。然れども其の心曲を知ること能はず。猶ほ相去ること千里を隔つるが一般なり。古人謂へる有り、白頭も新しきが如く、傾蓋も故の如し、と。知ると知らざるとに由るなり。亦此の意のみ。蓋し人の心曲は幽隠にして、良才美徳人に長ずる者有りと雖も、姦邪凶慝甚だしき者有りと雖も、然れども常に深く伏して発せず。事に遇ふに非ずんば、終身窺ふべからざる者有り。父兄と雖も之を識ること能はず。况や他人に於てをや。故に吾の人を知ること難きと、人の我を知ること難きと、同じく是れ一般なり。人の己を知らざるを以て、人を怨み自ら慍るべからず。人の吾が中心に美徳有るを知らざるは、譬へば他人の吾が肚裏の饜足を知ること能はざるが如し。是れ我が身に於て相干らざるの事なり。何の怨尤か之れ有らん。故に孔子曰く、人の己を知らざるを患へず、人を知らざるを患ふ、と。
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『慎思録』巻之二衆人の愛悪は、私情の偏僻に出でて、理に違ふ者多し。世に謹厚淳実の人有るも、復た斯の偏僻の病有ることを免れざる者は、何ぞや。蓋し其の心智昏昧にして蔽惑する所有るに因るなり。人を愛悪する者は、当に自ら省察すべき所なり。
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『慎思録』巻之三愛悪の二者は、人情の大端なり。愛悪正しければ、則ち道行はる。其の偏愛偏悪有る者は、是れ私意の発する所にして、心の正しからずして、道の行はれざる所以なり。衆人の愛悪は、多く私意に出づ。故に愛すべからざるを愛するは、私昵に因るなり。悪むべからざるを悪むは、私怨に因るなり。道の行はれざる所以なり。夫れ愛悪正しくして理に当たる者を君子と為し、愛悪正しからずして理に背く者を小人と為す。身の修まると否と、家の斉ふと否と、世の治と乱と、皆愛悪の偏正に繋かるのみ。愛悪を正すの義、大なるかな。
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『慎思録』巻之三凡そ其の人と為りや、口に毀誉多き者は、其の是非する所、理に中ると雖も、終に是れ君子の事に非ず。况んや理に中らざる者をや。只胸中に涇渭別れて、口頭に毀誉鮮き者は、良士と為すべきなり。夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。人の禀性も亦然り。若し夫れ性の本然を原ぬれば、則ち不善有る無し。所謂理一なり。各其の性を成すに至りては、則ち斉一なること能はず。清濁純駁厚薄剛柔明暗敏鈍有り。其の高下品格、或いは相什佰し、或いは相千万す。所謂分殊なり。強ひて之を一にせんと欲するは、則ち不可なり。
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『慎思録』巻之一天地の間、淑き者は常に少なく、慝しき者は常に多し。是を以て君子は常に少なく、小人は常に多し。且つ世間順適の事は常に少なく、払戻の事は常に多し。世態此くの如し。固より怪しむに足らず。今の人、一事我が心に快からざれば、則ち人を怨懟す。是れ多欲の人にして、世情物態を知らず、愚の甚だしきなり。朱子曰く、自家すら猶ほ自家の意を快くすること能はず。如何ぞ他人却りて尽く我が意を快くせんと。愚謂へらく、人能く此の語を体認すれば、則ち怨懟に遠ざかるに庶からん。蓋し自家の心を制するは、其の機我に在りと雖も、尚ほ且つ制御し難し。而るを況んや他人に於てをや。許魯斎も亦曰く、聖賢を以て人に望めば、則ち完人無しと。然らば則ち常人を以て人に望むべし。庶幾はくは怨懟無からん。