慎思録 / 巻之一
天地之間。淑者常少。慝者常多。是以君子常少。小人常多。且世間順適之事常少。拂戾之事常多。世態如此。固不足爲怪。今之人。一事不快于我心。則怨懟於人。是多欲之人。不知世情物態。愚之甚也。朱子曰。自家猶不能快自家意。如何他人却盡快我意。愚謂。人能體認此語。則庶乎遠怨懟。葢制自家之心。雖其機在我。尙且難制御。而况於他人乎。許魯齋亦曰。以聖賢望人。則無完人。然則可以常人望人。庶幾無怨懟也。
新字:天地之間。淑者常少。慝者常多。是以君子常少。小人常多。且世間順適之事常少。払戻之事常多。世態如此。固不足為怪。今之人。一事不快于我心。則怨懟於人。是多欲之人。不知世情物態。愚之甚也。朱子曰。自家猶不能快自家意。如何他人却尽快我意。愚謂。人能体認此語。則庶乎遠怨懟。葢制自家之心。雖其機在我。尚且難制御。而況於他人乎。許魯斎亦曰。以聖賢望人。則無完人。然則可以常人望人。庶幾無怨懟也。
書き下し
天地の間、淑き者は常に少なく、慝しき者は常に多し。是を以て君子は常に少なく、小人は常に多し。且つ世間順適の事は常に少なく、払戻の事は常に多し。世態此くの如し。固より怪しむに足らず。今の人、一事我が心に快からざれば、則ち人を怨懟す。是れ多欲の人にして、世情物態を知らず、愚の甚だしきなり。朱子曰く、自家すら猶ほ自家の意を快くすること能はず。如何ぞ他人却りて尽く我が意を快くせんと。愚謂へらく、人能く此の語を体認すれば、則ち怨懟に遠ざかるに庶からん。蓋し自家の心を制するは、其の機我に在りと雖も、尚ほ且つ制御し難し。而るを況んや他人に於てをや。許魯斎も亦曰く、聖賢を以て人に望めば、則ち完人無しと。然らば則ち常人を以て人に望むべし。庶幾はくは怨懟無からん。
現代語訳
天地の間では、善いものは常に少なく、悪いものは常に多いのです。だから君子は常に少なく、小人は常に多い。また世の中で思いどおりに運ぶことは常に少なく、思いに逆らうことは常に多いのです。世のありさまはこのようなもので、もとより怪しむには足りません。今の人は、一つのことが自分の心に快くないと、人を怨み恨みます。これは欲の多い人で、世の情や物のありさまを知らず、はなはだ愚かです。朱子は「自分でさえ自分の思いどおりにならないのに、どうして他人がことごとく自分の思いどおりになろうか」と言いました。私が思うに、人がこの言葉を身をもって理解すれば、怨みから遠ざかることができるでしょう。自分の心を制することは、その鍵が自分にあっても、なお制御しがたいものです。まして他人はなおさらです。許魯斎も「聖賢の基準で人に望めば、完全な人などいない」と言いました。そうであれば、普通の人の基準で人に望むべきです。そうすれば怨みはなくなるでしょう。
解説
この章句が説くこと
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