慎思録 / 巻之六
人於使奴僕之道。往往不用心。常忽略了。夫仁者無不愛。况於我僮僕乎。今不察日用至近之事。何不思之甚乎。此可謂之其所賤惡而辟也。陶淵明送一力給其子書曰。此亦人子也。可善遇之。此言可以爲法。
新字:人於使奴僕之道。往往不用心。常忽略了。夫仁者無不愛。況於我僮僕乎。今不察日用至近之事。何不思之甚乎。此可謂之其所賤悪而辟也。陶淵明送一力給其子書曰。此亦人子也。可善遇之。此言可以為法。
書き下し
人、奴僕を使ふの道に於いて、往往心を用ゐず、常に忽略す。夫れ仁者は愛せざること無し。況んや我が僮僕に於いてをや。今日用至近の事を察せざるは、何ぞ思はざるの甚だしきや。此れ之を其の賤悪する所に辟すと謂ふべし。陶淵明、一力を送りて其の子に給する書に曰く、此れも亦人の子なり、善く之を遇すべしと。此の言以て法と為すべし。
現代語訳
人は召使いを使うやり方に、しばしば心を用いず、いつもおろそかにしています。そもそも仁者は愛さないものがありません。まして自分の召使いならなおさらです。いま日々のごく身近なことを省みないのは、なんと思慮のないことでしょう。これは『大学』にいう「自分が見下し嫌う者に対して偏る」ということです。陶淵明が一人の下男を息子に送ったときの手紙に「この者もまた人の子である。よく扱ってやりなさい」とあります。この言葉は手本とすべきです。
解説
身近に使う者への態度にこそ仁が問われる、という条です。「其の賤悪する所に之きて辟す」は『大学』伝八章の語で、見下す相手には判断が偏るという戒めです。陶淵明が息子に下男を送った際の「此れ亦人の子なり」の言葉は、『南史』などの伝に見える有名な逸話です。益軒は『家道訓』などでも使用人の扱いを詳しく説きました。部下や店員、立場の弱い人への接し方には、その人の本当の人柄が出ます。
この章句が説くこと
仁愛使用人陶淵明思いやり
関連する章句
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論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
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『慎思録』巻之二仁は心の徳、愛の理なり。朱子の張敬夫に答ふる書に曰く、愛の理とは、是れ乃ち其の体性を指して言ふ、と。篤信謂ふ、仁に体用有り。然れども心の徳は固より体なり。愛の理も亦た其の体性を指して言へば、則ち用に属せず。倶に仁の体を以て言を為す。雲峯胡氏の心の徳を以て体と為し、愛の理を以て用と為す者は非なり。近ごろ孫詒仲の四書約言を看るに、曰く、事の宜も亦た是れ用に非ず、と。謂ふこころは、事を処するの宜は心に在り、倶に未発を以て言ふ。事の宜と愛の理とは一様なり。猶ほ宜の理と曰ふがごときのみ。愚謂へらく、孫の説の如くんば、則ち事の宜も亦た用に属すべからず。
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