慎思録 / 巻之六
居家而不孝。事君而不忠。厥罪惟鈞。不忠之人。君得而斥之。不孝之人。父忍而容之。惟幸而免耳。爲人子者。爲父所忍容。此不孝之甚也。雖不被爲父譴責。豈可不恥心乎哉。
新字:居家而不孝。事君而不忠。厥罪惟鈞。不忠之人。君得而斥之。不孝之人。父忍而容之。惟幸而免耳。為人子者。為父所忍容。此不孝之甚也。雖不被為父譴責。豈可不恥心乎哉。
書き下し
家に居て孝ならず、君に事へて忠ならざるは、厥の罪惟れ鈞し。不忠の人は、君得て之を斥く。不孝の人は、父忍びて之を容る。惟だ幸ひにして免るるのみ。人の子たる者、父の忍び容るる所と為るは、此れ不孝の甚だしきなり。父の譴責を被らずと雖も、豈に恥づる心あらざるべけんや。
現代語訳
家にいて親に孝行せず、主君に仕えて忠実でないのは、その罪は等しいものです。不忠の人は、主君が退けることができます。不孝の人は、父が我慢して受け入れています。ただ幸いに免れているにすぎません。人の子として、父に我慢され受け入れられているのは、不孝の最たるものです。父から叱責を受けないとしても、どうして恥じる心を持たずにいられるでしょうか。
解説
不孝の罪は不忠と同じなのに、親は子を見捨てずに耐えてくれるので、罰を受けずに済んでいるだけだという条です。「厥の罪惟れ鈞し」は『書経』の言い回しを借りたものです。忠と孝を並べるのは儒教の基本で、益軒も『家道訓』で孝を家の根本としました。叱られないことは許されていることではありません。家族の我慢の上に自分の気ままが成り立っていないか、ときに振り返ってみる価値があります。
この章句が説くこと
孝忠恥家族親
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