近思録 / 巻1 道体
如復卦言「七日來復」、其間元不斷續、陽已復生。「物極必返。」其理須如此。有生便有死、有始便有終。明道先生曰:天地之間、只有一箇感與應而已。更有甚事?問仁。伊川先生曰:此在諸公自思之。將聖賢所言仁處、類聚觀之、體認出來。孟子曰:「惻隱之心、仁也。」後人遂以愛爲仁。愛自是情、仁自是性、豈可專以愛爲仁?孟子言:「惻隱之心、仁之端也。」既曰仁之端、則不可便謂之仁。退之言:「博愛之謂仁」、非也。仁者固博愛、然便以博愛爲仁則不可。問仁與心何異?曰:心譬如穀種。生之性、便是仁。陽氣發處、乃情也。義訓宜、禮訓別、仁當何訓?說者謂訓覺訓人、皆非也。當合孔孟言仁處、大概研窮之、二三歲得之未晚也。
新字:如復卦言「七日来復」、其間元不断続、陽已復生。「物極必返。」其理須如此。有生便有死、有始便有終。明道先生曰:天地之間、只有一箇感与応而已。更有甚事?問仁。伊川先生曰:此在諸公自思之。将聖賢所言仁処、類聚観之、体認出来。孟子曰:「惻隠之心、仁也。」後人遂以愛為仁。愛自是情、仁自是性、豈可専以愛為仁?孟子言:「惻隠之心、仁之端也。」既曰仁之端、則不可便謂之仁。退之言:「博愛之謂仁」、非也。仁者固博愛、然便以博愛為仁則不可。問仁与心何異?曰:心譬如穀種。生之性、便是仁。陽気発処、乃情也。義訓宜、礼訓別、仁当何訓?説者謂訓覚訓人、皆非也。当合孔孟言仁処、大概研窮之、二三歳得之未晩也。
書き下し
復の卦に「七日にして来復す」と言ふが如き、其の間元より断続せず、陽已に復生す。「物極まれば必ず返る」。其の理須らく此の如くなるべし。生有れば便ち死有り、始め有れば便ち終はり有り。明道先生曰く、天地の間、只だ一箇の感と応と有るのみ。更に甚(なん)の事か有らん。仁を問ふ。伊川先生曰く、此れ諸公自ら之を思ふに在り。聖賢の仁を言ふ所の処を将て、類聚して之を観、体認し出だし来たれ。孟子曰く、「惻隠の心は仁なり」と。後人遂に愛を以て仁と為す。愛は自ら是れ情、仁は自ら是れ性、豈に専ら愛を以て仁と為すべけんや。孟子言ふ、「惻隠の心は仁の端なり」と。既に仁の端と曰へば、則ち便ち之を仁と謂ふべからず。退之言ふ、「博愛之を仁と謂ふ」と、非なり。仁者は固より博愛なり、然れども便ち博愛を以て仁と為すは則ち不可なり。仁と心と何ぞ異なると問ふ。曰く、心は譬へば穀種の如し。生の性は、便ち是れ仁なり。陽気の発する処は、乃ち情なり。義は宜と訓じ、礼は別と訓ず、仁は当に何と訓ずべき。説く者覚と訓じ人と訓ずと謂ふも、皆非なり。当に孔孟の仁を言ふ処を合はせて、大概之を研窮すべし、二三歳にして之を得るも未だ晩からざるなり。
現代語訳
復の卦に「七日で戻ってくる」と言うように、その間にもともと途切れはなく、陽はすでに再び生じている。「物は極まれば必ず返る」。その理はこうでなければならない。生があれば死があり、始まりがあれば終わりがある。程顥(明道先生)は言う。天地の間には、ただ感じることと応じることがあるだけである。ほかに何の事があろうか。ある人が仁について問うた。程頤(伊川先生)は言う。これは諸君が自分で考えることだ。聖人や賢人が仁を語った箇所を集めて並べて観察し、身をもって会得せよ。孟子は「惻隠の心は仁である」と言った。後の人はそれで愛を仁とするようになった。しかし愛はもともと情であり、仁はもともと性である。どうして愛だけをもって仁とすることができようか。孟子は「惻隠の心は仁の端(いとぐち)である」とも言っている。仁の端だと言う以上、それをそのまま仁と呼ぶことはできない。韓愈(退之、唐の文人)が「広く愛することを仁という」と言ったのは誤りである。仁者はもちろん広く愛するが、広く愛することをそのまま仁とするのはいけない。仁と心はどう違うのかと問われて、答えて言う。心はたとえれば穀物の種のようなものである。生み出す性、それが仁である。陽気が発して芽を出すところが情である。義は「宜しき」と訓じ、礼は「区別」と訓じるが、仁は何と訓じたらよいか。説く者は「覚(めざめる)」と訓じたり「人」と訓じたりするが、どれも正しくない。孔子と孟子が仁を語った箇所を合わせて、大筋を研究すべきである。二、三年かけて会得しても遅くはない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
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『慎思録』巻之六人、奴僕を使ふの道に於いて、往往心を用ゐず、常に忽略す。夫れ仁者は愛せざること無し。況んや我が僮僕に於いてをや。今日用至近の事を察せざるは、何ぞ思はざるの甚だしきや。此れ之を其の賤悪する所に辟すと謂ふべし。陶淵明、一力を送りて其の子に給する書に曰く、此れも亦人の子なり、善く之を遇すべしと。此の言以て法と為すべし。
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『慎思録』巻之二仁は心の徳、愛の理なり。朱子の張敬夫に答ふる書に曰く、愛の理とは、是れ乃ち其の体性を指して言ふ、と。篤信謂ふ、仁に体用有り。然れども心の徳は固より体なり。愛の理も亦た其の体性を指して言へば、則ち用に属せず。倶に仁の体を以て言を為す。雲峯胡氏の心の徳を以て体と為し、愛の理を以て用と為す者は非なり。近ごろ孫詒仲の四書約言を看るに、曰く、事の宜も亦た是れ用に非ず、と。謂ふこころは、事を処するの宜は心に在り、倶に未発を以て言ふ。事の宜と愛の理とは一様なり。猶ほ宜の理と曰ふがごときのみ。愚謂へらく、孫の説の如くんば、則ち事の宜も亦た用に属すべからず。
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『慎思録』巻之二禽獣は己を愛することを知りて、物を愛することを知らず。是れ不仁に由る。故に礼無く義無し。此れ禽獣の道なり。人道は則ち然らず。己を愛し又人を愛す。是れ此れ仁有るに由る。是を以て礼有り義有り。是れ人と禽獣との由りて分かるる所なり。人苟も己に便にして礼無く、己に利ありて義無ければ、則ち禽獣と何ぞ異ならんや。
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『慎思録』巻之四君子の道、親を親しみ民を仁しみ物を愛する者は、義有り。蓋し親と民と物と、三者は皆天の生ずる所にして、愛育する所なり。是を以て吾が天に事ふるの道は、当に天の愛する所を厚くすべし。吾の之を親しみ之を仁しみ之を愛する者は、乃ち天心に順ひて之に事ふる所以なり。此れ一義と為す。且つ三者は本是れ天地の生ずる所にして、吾と一気同体なり。所謂民は吾が同胞、物は吾が与なり。是れ厚くせざるべからず。故に吾の之を親しみ之を仁しみ之を愛する者は、乃ち吾が気類を厚くする所以なり。此れ一義と為す。然れども二義有りと雖も、之を要するに皆是れ天に事ふるの道なり。人子の親に事ふるの道も、亦た此に猶し。蓋し人の子為る者は、父母の生む所を厚くし、父母の愛する所を愛す。是れ兄弟を宜しくすれば、則ち親に事ふるの道なり、一義と為す。又克く兄弟に友なるは、此れ同気を厚くするなり、是れ一義と為す。然れども其の友愛此の如くなれば、則ち是れ父母も亦た之を悦楽す。此れも亦た親に事ふるの道なり。故に二者は、之を要するに皆是れ親に事ふるの事なり。夫れ仁人の親に事ふるや、天に事ふるが如く、天に事ふること親に事ふるが如し。蓋し仁孝は一理なり。天に事ふると親に事ふると、其の事異なりと雖も、然れども其の心同じく、其の理一なり。
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『墨子』尚同下是の故に子墨子曰く、「凡そ民をして尚同せしむる者、民を愛すること疾からざれば、民、使う可き無し。曰く、必ず疾く愛して之を使い、信を致して之を持し、富貴以て其の前を道き、明罰以て其の後を率う。政を為すこと此くの若くんば、唯だ我と同じくする毋からんと欲するも、將に得可からざるなり」と。
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