論語と算盤 / 算盤と権利・仁に当つては師に譲らず
併し基督教に説く所の『愛』と論語に教ふる所の『仁』とは殆んど一致して居ると思はれるが、其所にも自動的と他動的との差別はある、例へば、耶蘇教の方では『己の欲する所を人に施せ』と教へてあるが、孔子は『己の欲せざる所を人に施す勿れ』と反対に説いて居るから、一見義務のみにて権利観念が無いやうである、併し両極は一致すといへる言の如く、此の二者も終局の目的は遂に一致するものであらうと考へる。
書き下し
しかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とはほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は「己の欲せざる所を人に施すなかれ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すと言える言のごとく、この二者も終局の目的はついに一致するものであろうと考える。
現代語訳
しかし、キリスト教で説く「愛」と論語で教える「仁」とは、ほとんど一致していると思われるが、そこにも自分から働きかけるか、他から受けるかの違いはある。たとえば、キリスト教では「自分がしてほしいことを人にせよ」と教えているが、孔子は「自分がしてほしくないことを人にしてはならない」と反対に説いているから、一見すると義務だけで権利の観念がないように見える。しかし「両極は一致する」という言葉があるように、この二つも最終の目的は結局一致するものであろうと考える。
解説
キリスト教の「黄金律」と論語の教えを並べた、比較である。マタイ伝の「すべて人にせられんと思ふことは、人にもまたその如くせよ」と、論語衛霊公篇の「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」は、同じことを積極と消極の両面から言ったものとして、古くから対比されてきた。渋沢はこれを「自動的と他動的」の差と呼ぶ。自ら進んで善をなせと命じるか、人の嫌がることをするなと戒めるか。後者は義務だけを語っているように見えるが、行き着く先は同じだと言う。仕事に置き換えれば、顧客が喜ぶことを積極的に探す姿勢と、顧客が嫌がることを決してしない姿勢の違いである。どちらか一方だけでは足りず、両方がそろって信頼が生まれる。「愛」と「仁」をほぼ一致すると見る点にも、宗派を超えて人の道を見る渋沢の立場が出ている。
関連する章句
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語にも明らかに権利思想の含まれていることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」と言った一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かってはあくまでも自己の主張を通してよい、師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくてもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているではないか。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず世人はややもすれば、論語主義には権利思想が欠けている、権利思想なき者は文明国の完全なる教えとするに足らぬと論ずるものが有るようだが、これは論ずる人の誤想謬見と言わねばならぬ。なるほど、孔子教を表面から観察したならあるいは権利思想に欠けているように見えるかも知れぬ。基督教を精髄とせる泰西思想に比較すれば、必ず権利思想の観念が薄弱であるがごとく思われるであろう。しかしながら余はかくのごとき言をなす人は、いまだもって真に孔子を解した者ではないと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人でないように思われる。基督や釈迦とは全然その成立を異にしたものである。ことに孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、既に比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものと言うべく、両者に相違を生ずることはもとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には全然権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓きたいと思う。
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『論語と算盤』実業と士道・相愛忠恕の道を以て交はるべし日支間は同文同種の関係あり。国の隣接せる位置よりするも、はたまた古来よりの歴史よりいうも、また思想、風俗、趣味の共通せる点あるに徴するも、相提携せざるべからざる国柄なり。然らばいかにして提携の実を挙ぐべきか。その方策他なし。人情を理解し、己の欲せざる所はこれを人に施さず、いわゆる相愛忠恕の道をもって相交わるにあり。すなわちその方策は論語の一章にありと謂うべきである。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず独りこの一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉はなおたくさんに見出すことが出来るのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・人生観の両面ゆえに余は客観的に与して主観的をば排斥するのである。孔子の教えに「仁者は己れ立たんと欲してまず人を立て、己れ達せんと欲してまず人を達す」と言うてあるが、社会のこと人生のことはすべてこうでなくてはならぬことと思う。己れ立たんと欲してまず人を立てと言い、己れ達せんと欲してまず人を達すと言えば、いかにも交換的の言葉のように聞こえて、自慾を充たさんがために、まず自ら忍んで人に譲るのだというような意味にも取れるが、孔子の真意は決してそんな卑屈なものでなかったに違いない。人を立て達せしめて、然る後に自己が立ち達せんとするは、その働きを示したもので、君子人の行いの順序はかくあるべきものだと教えられたに過ぎぬのである。
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