慎思録 / 巻之六
學術之綱紀節目。與爲學之次第。以學庸語孟所載孔曾思孟之所敎爲法。而不背之者。係正學。可以爲聖人之徒。與此不同者。便爲異學。不可爲聖人之徒。如周程張朱之學。皆是續道統之緖。爲聖學之正宗。然於經說。各立所見之言。不相同者亦多矣。如張子正蒙所說人物死生之說。與程朱之說大爲齟齬。其餘亦出入者有之。然同是聖門之正派。而其道則一也。且中葉以來經解所載宋儒諸經說。及宋季以來至明季諸儒之言。與程朱諸說不同者多矣。是各立一家之言也。苟非有外道之意思。則以經說之不同不可爲異學。須精擇爲用捨也。
新字:学術之綱紀節目。与為学之次第。以学庸語孟所載孔曽思孟之所教為法。而不背之者。係正学。可以為聖人之徒。与此不同者。便為異学。不可為聖人之徒。如周程張朱之学。皆是続道統之緒。為聖学之正宗。然於経説。各立所見之言。不相同者亦多矣。如張子正蒙所説人物死生之説。与程朱之説大為齟齬。其余亦出入者有之。然同是聖門之正派。而其道則一也。且中葉以来経解所載宋儒諸経説。及宋季以来至明季諸儒之言。与程朱諸説不同者多矣。是各立一家之言也。苟非有外道之意思。則以経説之不同不可為異学。須精択為用捨也。
書き下し
学術の綱紀節目と、学を為すの次第とは、学庸語孟に載する所の孔曾思孟の教ふる所を以て法と為して、之に背かざる者は、正学に係り、以て聖人の徒と為すべし。此と同じからざる者は、便ち異学と為し、聖人の徒と為すべからず。周程張朱の学の如きは、皆是れ道統の緒を続ぎ、聖学の正宗為り。然れども経説に於ては、各々所見の言を立て、相同じからざる者も亦多し。張子の正蒙に説く所の人物死生の説の如き、程朱の説と大いに齟齬を為す。其の余も亦出入する者之有り。然れども同じく是れ聖門の正派にして、其の道は則ち一なり。且つ中葉以来経解に載する所の宋儒の諸経説、及び宋季以来明季に至る諸儒の言、程朱の諸説と同じからざる者多し。是れ各々一家の言を立つるなり。苟し外道の意思有るに非ざれば、則ち経説の同じからざるを以て異学と為すべからず。須らく精しく択びて用捨を為すべし。
現代語訳
学問の大綱と細目、そして学ぶ順序について、『大学』『中庸』『論語』『孟子』に載る孔子・曾子・子思・孟子の教えを手本とし、それに背かないものが正学であり、聖人の徒と言えます。これと異なるものは異学であり、聖人の徒とは言えません。周濂渓・二程・張載・朱子の学は、みな道統の系譜を継ぐもので、聖学の正統です。しかし経書の解釈では、それぞれ自分の見解を立てて食い違うところも多くあります。張子が『正蒙』で説いた人と物の生死の説などは、程朱の説と大きく食い違っていますし、ほかにも出入りのあるところがあります。それでも同じく聖門の正統な流れであり、その道は一つです。また中期以来の経解に収められた宋儒の諸説や、宋末から明末までの儒者の言葉にも、程朱の説と違うものが多くあります。これはそれぞれ一家の説を立てたものです。もし外道(異端)の考えを持っていないのなら、経書の解釈が違うというだけで異学としてはなりません。よく吟味して取捨すべきです。
解説
この章句が説くこと
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