慎思録 / 巻之五
樂記曰。君子樂得其道。小人樂得其欲。以道制欲。則樂而不亂。以欲忘道。則惑而不樂。此知君子與小人。其所樂之不相同。猶氷炭薰猶之不相容。然而君子而後有眞樂。小人之所樂。樂未既。憂則隨之。不可以爲樂也。
新字:楽記曰。君子楽得其道。小人楽得其欲。以道制欲。則楽而不乱。以欲忘道。則惑而不楽。此知君子与小人。其所楽之不相同。猶氷炭薫猶之不相容。然而君子而後有真楽。小人之所楽。楽未既。憂則随之。不可以為楽也。
書き下し
楽記に曰く、君子は其の道を得るを楽しみ、小人は其の欲を得るを楽しむ。道を以て欲を制すれば、則ち楽しみて乱れず。欲を以て道を忘るれば、則ち惑ひて楽しまず、と。此れ君子と小人と、其の楽しむ所の相同じからざるを知る。猶ほ氷炭薫蕕の相容れざるがごとし。然り而して君子にして後に真の楽しみ有り。小人の楽しむ所は、楽しみ未だ既きざるに、憂ひ則ち之に随ふ。以て楽しみと為すべからず。
現代語訳
『礼記』楽記に「君子はその道を得ることを楽しみ、小人はその欲を得ることを楽しむ。道によって欲を抑えれば、楽しんで乱れない。欲によって道を忘れれば、惑って楽しめない」とあります。これによって、君子と小人とでは楽しむものが同じでないことがわかります。氷と炭、よい香りの草と臭い草が互いに相容れないようなものです。そして君子であって初めて真の楽しみがあります。小人の楽しみは、楽しみがまだ尽きないうちに、憂いがそれに続いてやってきます。楽しみとすることはできないのです。
解説
楽記の言葉は、音楽の楽しみを論じながら、人の楽しみ一般の本質を突いたものです。薫は香草、蕕は悪臭の草で、善と悪が相容れないたとえです。益軒は、欲を満たす楽しみにはすぐに憂いが伴い、道を楽しむ者だけが真の楽しみを得ると言います。前に見た真楽の条や、晩年の『楽訓』の主題と同じです。欲望を満たす快楽は長続きせず、後悔や不安を残しがちです。道にかなった楽しみは乱れず、後に憂いを残さない。何を楽しみとするかで、人生の質が決まるという教えです。
この章句が説くこと
楽道欲礼記真楽
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