呻吟語 / 内篇・問學・樂を學べば便ち是れ助長の心
王心齋每以樂為學,此等學問是不會苦的甜瓜。入門就學樂,其樂也,逍遙自在耳,不自深造真積、憂勤惕勵中得來。孔子之樂以忘憂,由於發憤忘食;顏子之不改其樂,由於博約克復。其樂也,優游自得,無意於歡欣,而自不擾,無心於曠達,而自不悶。若覺有可樂,還是乍得心;著意學樂,便是助長心,幾何而不為猖狂自恣也乎?
新字:王心斎毎以楽為学,此等学問是不会苦的甜瓜。入門就学楽,其楽也,逍遥自在耳,不自深造真積、憂勤惕勵中得来。孔子之楽以忘憂,由於発憤忘食;顏子之不改其楽,由於博約克復。其楽也,優游自得,無意於歓欣,而自不擾,無心於曠達,而自不悶。若覚有可楽,還是乍得心;著意学楽,便是助長心,幾何而不為猖狂自恣也乎?
書き下し
王心齋は每に樂を以て學と為す。此等の學問は是れ苦を會せざるの甜瓜なり。入門就ち樂を學ぶ。其の樂しみや、逍遙自在なるのみ。深造真積、憂勤惕勵の中より得來たるに自らず。孔子の樂しみて以て憂ひを忘るるは、發憤して食を忘るるに由る。顏子の其の樂しみを改めざるは、博約克復に由る。其の樂しみや、優游自得して、歡欣に意無くして自ら擾れず、曠達に心無くして自ら悶えず。若し樂しむ可き有りと覺えば、還た是れ乍得の心なり。樂を學ぶに意を著くれば、便ち是れ助長の心なり。
現代語訳
王心斎はいつも楽しみを学とします。こういう学問は、苦さを知らない甘い瓜です。入門するなり楽しみを学ぶ。その楽しみは、ただ気ままに遊ぶだけで、深く造り真に積み、憂え勤め恐れ励む中から得たものではありません。孔子が楽しんで憂いを忘れたのは、発憤して食を忘れたことから来ています。顔回がその楽しみを改めなかったのは、博く学び礼で約し己に克ち礼に復ったことから来ています。その楽しみはゆったりと自ら得たもので、喜びを目当てにしないのに自ずと乱れず、広やかさを心がけないのに自ずと塞ぎません。もし楽しむべきものがあると感じるなら、それはまだ得たばかりの心です。楽しみを学ぼうと意識すれば、それはもう助長の心です。
解説
この章句が説くこと
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