慎思録 / 巻之一
記曰。君子樂得其道。葢得其道者。惟心無私欲。而事當理之謂。不得其道。則反此。得其道。則隨處而樂。所謂君子無入而不自得焉也。然則雖處逆境。而不失其和樂之心。况於順境乎。立則樂乎立。行則樂乎行。臥則樂乎臥。飮食則樂乎飮食。對客則樂乎客。觀山水則樂乎山水。如此則無所往而不樂也。非樂驕樂樂佚遊。葢自有其樂爾。
新字:記曰。君子楽得其道。葢得其道者。惟心無私欲。而事当理之謂。不得其道。則反此。得其道。則随処而楽。所謂君子無入而不自得焉也。然則雖処逆境。而不失其和楽之心。況於順境乎。立則楽乎立。行則楽乎行。臥則楽乎臥。飲食則楽乎飲食。対客則楽乎客。観山水則楽乎山水。如此則無所往而不楽也。非楽驕楽楽佚遊。葢自有其楽爾。
書き下し
記に曰く、君子は其の道を得るを楽しむと。蓋し其の道を得るとは、惟心に私欲無くして、事理に当たるの謂なり。其の道を得ざれば、則ち此に反す。其の道を得れば、則ち随処にして楽しむ。所謂君子は入るとして自得せざること無しなり。然らば則ち逆境に処ると雖も、其の和楽の心を失はず。況んや順境に於てをや。立てば則ち立つを楽しみ、行けば則ち行くを楽しみ、臥せば則ち臥すを楽しみ、飲食すれば則ち飲食を楽しみ、客に対すれば則ち客を楽しみ、山水を観れば則ち山水を楽しむ。此くの如くなれば則ち往くとして楽しまざる所無し。驕楽を楽しみ佚遊を楽しむに非ず。蓋し自ら其の楽しみ有るのみ。
現代語訳
『礼記』に「君子はその道を得ることを楽しむ」とあります。その道を得るとは、ただ心に私欲がなく、物事が理に当たっていることを言います。その道を得なければ、この反対になります。その道を得れば、どこにいても楽しみます。いわゆる「君子はどこに入っても自ら満ち足りないことはない」ということです。そうであれば、逆境にあっても、和やかに楽しむ心を失いません。まして順境ではなおさらです。立てば立つことを楽しみ、歩けば歩くことを楽しみ、横になれば横になることを楽しみ、飲み食いすれば飲み食いを楽しみ、客に向かえば客を楽しみ、山水を見れば山水を楽しむ。このようであれば、どこへ行っても楽しまないところはありません。驕りを楽しんだり、遊び歩きを楽しんだりするのではありません。自ずとその楽しみがあるだけです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之五楽記に曰く、君子は其の道を得るを楽しみ、小人は其の欲を得るを楽しむ。道を以て欲を制すれば、則ち楽しみて乱れず。欲を以て道を忘るれば、則ち惑ひて楽しまず、と。此れ君子と小人と、其の楽しむ所の相同じからざるを知る。猶ほ氷炭薫蕕の相容れざるがごとし。然り而して君子にして後に真の楽しみ有り。小人の楽しむ所は、楽しみ未だ既きざるに、憂ひ則ち之に随ふ。以て楽しみと為すべからず。
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『慎思録』巻之四楽の一字は、聖人の屢言ふ所、必ず以有るなり。是れ学者の当に知るべき所なり。以て高遠にして及ぶべからずと為して廃棄すべからざるなり。蓋し礼楽は脩身の本なり。礼は敬のみ。楽は楽なり。二者は、斯須も身を去るべからざる所以なり。楽は是れ心の生理なり。常人と雖も亦た之有り。君子は楽しみて道に順ひ、道を以て欲を制す。則ち楽しみて乱れず。小人は楽しみて欲に順ひ、欲を以て道を忘る。則ち乱れて楽しまず。蓋し小人の楽しむ所は、真の楽に非ざるなり。故に君子にして而る後に楽を得。楽に非ざれば則ち以て君子と為すべからず。仁者は憂へず。楽と憂との消長を以て、君子小人分かる。
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『慎思録』巻之一楽しみは、是れ人心の天機なり。常人と雖も亦皆之有り。豈に唯人心のみ此の楽しみ有るのみならんや。草木の発生、禽虫の和鳴の如きも、亦是れ天機の発動にして、以て其の楽しみと為すべし。唯人は気稟の為に蔽錮せられ、物欲に間隔せられて、此の楽しみを失ふ者、世を挙げて皆然り。人情喜楽を欲せざること無し。然れども衆人は人心の本自ら此の楽しみ有るを識ること能はず。惟中に得る所無ければ、則ち外物を藉りて以て楽しみを求めざること能はず。是を以て声色臭味の欲、至らざる所無し。然れども道を以て欲を制すること能はざれば、則ち惑ひて楽しまず。故に其の初め耽楽すと雖も、然れども其の終り憂患無きこと能はず。衆人の惑ひて楽しまざる所以なり。
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『慎思録』巻之五大凡我が邦の人、古来書を読むこと、皆粗に坐す。未だ力を精に致す者を見ず。此れ其の学を為すと文を作ると、中夏に及ばざる所以なり。胡氏の知言に曰く、堯舜の民は、比屋封ずべし。能く之をして由らしむるのみ。亦之をして知らしむること能はず、と。愚謂ふ、今世の人、苟も書を読み経に通じて、斯の道に志有れば、則ち未だ道を知ること能はずと雖も、亦以て由らしむるの民と為すべし。然らば則ち澆季の時に生まれ在りと雖も、亦堯舜の民と謂ふべし。其の楽しみ如何ぞや。
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『呻吟語』内篇・談道・樂の傳はらざるを恨む千載にして下、最も恨む可き者は樂の傳はる無きなり。士大夫視て迂闊無用の物と為して、其の身心性命に切なる有るを知らず。
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『呻吟語』内篇・問學・樂を學べば便ち是れ助長の心王心齋は每に樂を以て學と為す。此等の學問は是れ苦を會せざるの甜瓜なり。入門就ち樂を學ぶ。其の樂しみや、逍遙自在なるのみ。深造真積、憂勤惕勵の中より得來たるに自らず。孔子の樂しみて以て憂ひを忘るるは、發憤して食を忘るるに由る。顏子の其の樂しみを改めざるは、博約克復に由る。其の樂しみや、優游自得して、歡欣に意無くして自ら擾れず、曠達に心無くして自ら悶えず。若し樂しむ可き有りと覺えば、還た是れ乍得の心なり。樂を學ぶに意を著くれば、便ち是れ助長の心なり。