慎思録 / 巻之五
大凡我邦之人。古來讀書。皆坐于粗。未見致力於精者。此其爲學與作文。所以不及于中夏也。胡氏知言曰。堯舜之民。比屋可封。能使之由而巳。亦不能使之知也。愚謂。今世之人。苟讀書通經。而有志于斯道。則雖未能知道。亦可以爲使由之民。然則雖生在澆季之時。亦可謂堯舜之民也。其樂如何哉。
新字:大凡我邦之人。古来読書。皆坐于粗。未見致力於精者。此其為学与作文。所以不及于中夏也。胡氏知言曰。堯舜之民。比屋可封。能使之由而巳。亦不能使之知也。愚謂。今世之人。苟読書通経。而有志于斯道。則雖未能知道。亦可以為使由之民。然則雖生在澆季之時。亦可謂堯舜之民也。其楽如何哉。
書き下し
大凡我が邦の人、古来書を読むこと、皆粗に坐す。未だ力を精に致す者を見ず。此れ其の学を為すと文を作ると、中夏に及ばざる所以なり。胡氏の知言に曰く、堯舜の民は、比屋封ずべし。能く之をして由らしむるのみ。亦之をして知らしむること能はず、と。愚謂ふ、今世の人、苟も書を読み経に通じて、斯の道に志有れば、則ち未だ道を知ること能はずと雖も、亦以て由らしむるの民と為すべし。然らば則ち澆季の時に生まれ在りと雖も、亦堯舜の民と謂ふべし。其の楽しみ如何ぞや。
現代語訳
おおよそわが国の人は、昔から書を読むのに、みな粗いところにとどまっています。精しいところに力を尽くす者をまだ見たことがありません。これが学問をすることと文章を作ることで中国に及ばない理由です。胡氏の『知言』に「堯・舜の民は、家ごとに諸侯に封じてよいほど善かった。しかしそれは道に従わせることができただけで、道を知らせることはできなかった」とあります。私が思うに、今の世の人も、もし書を読み経書に通じて、この道に志があれば、まだ道を知ることができなくても、道に従う民とはなれるでしょう。そうであれば、人情の薄い末世に生まれていても、堯・舜の民と言うべきです。その楽しみはどれほどでしょうか。
解説
「比屋封ずべし」は、堯舜の世には家並みの人々がみな諸侯に封じてよいほど徳が高かったという意味で、『漢書』や陸賈『新語』などに見える言葉です。「由らしむべし、知らしむべからず」は『論語』泰伯篇の言葉です。益軒は、日本人の読書は粗く、精しく読み込む力が足りないと自戒します。そのうえで、たとえ道を完全に知らなくても、学んで道に従おうと志すなら、末世にあっても堯舜の民と同じだと励まします。完璧な理解に至らなくても、正しい方向に歩み続けること自体に価値があるという温かい言葉です。
この章句が説くこと
読書精読道志楽
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