慎思録 / 巻之五
先輩固不可輕議。然而討論古人之是非得失。亦是究理之一事。不可不辨也。取其可取捨其可捨。亦宜公平。不可刻薄。東坡云。取人可恕。此言可爲法。
新字:先輩固不可軽議。然而討論古人之是非得失。亦是究理之一事。不可不弁也。取其可取捨其可捨。亦宜公平。不可刻薄。東坡云。取人可恕。此言可為法。
書き下し
先輩は固より軽々しく議すべからず。然り而して古人の是非得失を討論するも、亦是れ究理の一事にして、辨ぜざるべからず。其の取るべきを取り其の捨つべきを捨つるも、亦宜しく公平なるべし。刻薄なるべからず。東坡云ふ、人を取るには恕なるべし、と。此の言法と為すべし。
現代語訳
先輩をもちろん軽々しく論評してはなりません。しかし昔の人の是非や得失を論じ合うのも、理を究める一つの事であり、見分けなければなりません。取るべきものを取り、捨てるべきものを捨てるのも、公平であるべきで、冷酷であってはなりません。蘇東坡は「人を取り上げて評するには、思いやりをもってせよ」と言いました。この言葉は手本とすべきです。
解説
この巻で繰り返し論じてきた、先人への敬意と批判の均衡をまとめた一条です。先人を軽んじるのは誤りだが、その説の得失を吟味しないのも学問の怠慢です。大切なのは公平さと思いやりです。前に見た伊川の条で引いた蘇軾の「人を論ずるには恕なるべし」と同じ趣旨の言葉が、ここでも手本とされます。蘇軾をたびたび批判した益軒が、蘇軾のこの言葉は高く評価しているところに、人と説を分けて評価する益軒の公平さがうかがえます。人を批評するときの基本姿勢を示す言葉です。
この章句が説くこと
公平恕究理批評先輩
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